■土木のポートレイト

写真・文:大村 拓也

■2016年


※壁紙カレンダーの公開は終了しました

1月号「防波堤の垢抜けた内面」  稚内港北防波堤ドーム(北海道稚内市)
 
言わずと知れた北海道を代表する観光名所だ。学生時代、その存在を初めて知ったときの、防波堤の概念を打ち崩した驚きとも言い難いあの感覚は今でも忘れられない。説明されなければ、多くの観光客はこの構造物の本来の機能を意識することはないだろう。アーチと円柱を巧みに組み合わせ、アーチを屋根とした構造デザインは建築物という印象が強い。
長年想いを寄せていた稚内港北防波堤ドームを一目見ようと思い、秋が深まる北海道へ旅に出た。稚内へ向かう理由はただ一つ。その姿を余すことなく撮影するにはどうしたらいいか、考えた末、札幌から夜行バスに乗り込んだ。
到着したのは、午前5時15分ごろだっただろう。すでに白み始めた東の空を気にしながら、稚内駅からの道のりを小走りに急いだ。日の出は午前6時。日が昇りかけてでは遅い。せめて、その30分前には、カメラを構えておきたい時間帯だ。
暗がりではあったが、実物の印象は想像していた姿と少しも違(たが)わなかった。初対面の感動の余韻に浸る間もなく、すぐにカメラの露出を電灯に照らされたコンクリートの明るさに合わせる。そして、刻々と明るくなる空の様子を伺いながら、繰り返しシャッターを切った。ほどなくして、円柱がくっきりと浮かび上がった。午前5時35分。イメージ通りだ。
ふと気付くと、ドームの中を散歩する人の姿があった。戦前は防波堤の先にあった桟橋から樺太へ向かう連絡船に乗り込むため、多くの旅人がここを通ったはずだ。きっと、壁の裏側に波が押し寄せているなど、思いも及ばなかったに違いない。

2月号「冬こそウェブに注目」  新東名高速道路猿田川橋(静岡県静岡市葵区)
 
周囲の美しい新緑を見込んで、5月に撮影したのは失敗だった。
猿田川橋は構造上、PC(プレストレスト・コンクリート)橋に分類されるが、ウェブには、鋼管によるトラスが組まれている。ウェブをはっきりと描かずには、語れない橋だ。それにも関わらず、太陽高度を上げつつあった初夏の日差しは、橋の左右に張り出した上床版が庇(ひさし)となり、少し奥まったところにあるウェブまで届かなかった。
青空の下、日陰の部分の明るさは日向(ひなた)の10分の1以下になり、写真上では、ディテールは暗く潰れてしまう。だからと言って、カメラの露出を明るく設定しようものなら、せっかくの青空が色褪せる。仕方がないので、高度が低く、ウェブまで照らしてくれるであろう冬の太陽に期待して、2月に出直した。
ウェブに特徴を持つ橋は、1990年代以降、PC 箱桁橋を中心に増え続けている。従来のコンクリートウェブの代わりに波形鋼板や鋼管、薄型コンクリートパネルを使用することで、工期短縮や軽量化による経済性の向上を狙ったのだ。それは同時にウェブのデザインに多様性をもたらした。住宅街をかすめるように架かる猿田川橋では、周囲への圧迫感を軽減するため、景観に配慮し、PC 複合トラス構造が採用されたと聞く。
開発される各種のウェブ部材は、どれも一長一短があり、現在でもコンクリートウェブを採用する橋もある。裏を返せば、どの橋もそれぞれの条件に適う、こだわり抜いた設計がなされているということだ。どうしても斜張橋やアーチ橋などに興味がいきがちだが、一見地味な橋もほかの橋との違いに気付けば、新しい発見があるかもしれない。

3月号「復興を盛り立てる土木の仮の姿」  陸前高田市震災復興事業(岩手県陸前高田市)
 
「土木を撮る」という視点で被災地域を回ると、記録として状況をありのままに写真に残すことはできても、フォトジェニックな被写体としてとらえ、一個人の作品づくりに用いることに躊躇することがある。特に東日本大震災の直後は、被害の規模が大きく、かつ生々しく、ファインダーの中に土木のありさまを見つけるのは困難を極めた。
ようやく被災地域で作品づくりができると感じたのは2014年1月、陸前高田を訪れたときのことだ。震災後、およそ1年おきに現地の様子を見ており、それが3度目だったが、これまでとは全く違う光景が広がっているのを見て、驚いた。
かつてがれきがうず高く積み上げられていた場所は更地となり、そこに新たに遊園地のジェットコースターのような柱が立ち並びつつあった。そして、川には吊り橋が架けられ、対岸では、樹木が伐採された山にコンクリート造の巨大な土砂ピットが出現していた。
それらを頭の中でつなぎ合わせると、建設中の施設は、山を切り出して低地へ土砂を運び出すための大掛かりな仮設ベルトコンベヤーであることがすぐに理解できた。これは陸前高田のまちづくりが復旧から復興へ向け、新たな段階に入ったことを表していた。そして、私の目には、土木が動き出したのだと映った。
かつてまちだった場所は、見渡す限り工事現場と化した。ベルトコンベヤーを見上げ、将来への期待感を抱いた人がいた一方、急激な風景の変化に戸惑いを覚えた人も少なくないかもしれない。ただ、その光景もいずれはなくなる定めにある。そのことに気づいたとき、復興を盛り立てる土木の姿を捉えたいと、そう思った。

4月号「河床の記憶」  三栖閘門(みすこうもん)(京都府京都市伏見区)
 
正対する位置を探し、宇治川の中から三栖閘門を見上げてみた。本来ならば、船に乗らないと得られないアングルだ。だが、その水深は股下ほどしかなく、目の前にある閘門は底版の高さまで水が来ていない。閘門廃止後、川の水位が大幅に下がったのだ。
三栖閘門に隣接する伏見港は、豊臣秀吉が1594(文禄3)年に築いた河川港で、舟運の要衝として栄えてきた。しかし、戦中から戦後にかけて、宇治川の舟運とともに衰退してしまった。
国は1962(昭和37)年に三栖閘門を廃止し、宇治川の低水路を拡幅する治水工事に着手した。川幅が広がれば、洪水時以外も水位は下がる。舟運がなくなったことで、水位を確保する必要性は消えた。
そもそも三栖閘門が1929(昭和4)年に誕生した背景にも治水工事があった。まず伏見港と宇治川の間を堤防で仕切る際、水門が必要になった。これとは別に、宇治川とその下流に当たる淀川の河川改修によって、川の水位が低下。宇治川と、伏見港から京都へ延びる運河との間で水位差が生じた。この課題を解消するために閘門が設けられ、治水と利水は両立された。
ただし、昭和初期、既に物流の主軸は舟運から鉄道へ移行しつつあった。かといって、治水のためにいきなり舟運を断ち切るわけにもいかなかったに違いない。おそらく三栖閘門が行き交う船で活況を呈していたのは、完成後10年程度だっただろう。
堤防にたたずむ白いタワーは、まるで閘門の位置を示す灯台だ。それを目がけて、1艘の船が大阪湾からはるばる40km 以上遡ってやってきた。頭上を越え、ゲートをくぐり抜けていく。行き先は伏見か、京都か、それとも琵琶湖かもしれない。

5月号「地球を受け止める」  桜島(鹿児島県鹿児島市)
 
知人がSNSに投稿した桜島の写真に土木を見つけた。険しく聳え立つ北岳の下に鋼製セル堰堤が並んでいる。耐候性鋼特有の茶色は人工物の存在を強調しているようでいて、大自然の中では、相対的に人間活動の小ささを際立たせていた。
桜島といえば、火山活動と隣り合わせという印象が強い。では、噴火に備えた土木構造物はあるか、という疑問が湧いた。避難路としての道路や橋、噴石から逃れるための避難シェルターは思いついたが、溶岩流や火砕流を直接塞き止める「ダム」のような構造物の事例を目にしたことがない。
考えてみれば、土木構造物というものは求められる性能が明確でないと、設計できないものだ。長期に渡る予知が難しい火山活動に対して、人間がハードで対抗しようとするのは無理があるのかもしれない。
実際問題、桜島でリスクが高いのは火山災害ではなく、土石流災害だ。火山灰などによる堆積物は侵食されやすく、少ない雨でも土石流を引き起こす。長年の噴煙による降灰で樹木が育たず、山が荒廃したことも原因だ。そのため、山腹崩壊を防ぐ治山ダムや、土石流のエネルギーを抑える砂防ダム、土石流が溢れ出ないように川をコンクリートで固めた導流工などの土木構造物を島の至るところで目にする。
冒頭の鋼製セル堰堤も火山対策ではなく、林野庁が整備した治山ダムだった。山はさらに上側から崩落しているが、これ以上は傾斜がきつく、現在の位置が治山ダムを施工できる限界だという。
噴火を人間の吹き出物に例えるならば、侵食は肌の老化だろう。そうした地球の新陳代謝をわれわれは受け止め、時にかわさなければいけない。桜島にはそのことが凝縮されている。

6月号「A1橋台」  四国横断自動車道小松島インターチェンジ(徳島県小松島市)
 
渋滞する国道の車中から、朝日で白く輝くコンクリートに心惹かれた。
盛り土も架設もなされていない無垢な橋台は、見れば見るほど不思議な構造物だった。地盤が平坦なのにも関わらず、翼壁は海側にしかない。桁を載せるための台座は橋台の前面であるはずの終点側だけでなく、その背面に当たる始点側にも存在する。ボックスの内空は山側に向けて、広がっている。
計画の全容を知らない私に対し、この橋台はさまざまな疑問を投げかけ、いろいろな想像を掻き立たせる。そして、自分なりの仮説の検証を繰り返していくうちに、私は同じ設計の橋台が二つとして、この世に存在し得ないことに改めて気付く。下部構造物は合理性を求めた上部構造物と、一様ではない自然の地盤との間を取り持つために存在する。上下の条件の組み合わせが合致することはまずない。
部材を分解するように眺めていると、技術的な視点の一方で、だんだんと目の前にあるものが橋台ではなく、目的を持たないオブジェに見えてきてしまった。土木という概念を取り除くと、たしかにそれは幾何学的な形状を組み合わせた造形物であることに気付く。まるで現代アートだ。
まったく異なる二つの気づきは、上部構造物がなかったからこそ、もたらされたものだ。橋が完成してしまえば、同様の視点に立ち戻ることは難しい。それほどまで、下部構造物を意識することはない。
橋台の周りのヤードは整えられ、次の工事の乗り込みを待っている。だが、今はまだ橋台の独り舞台で、荷重を受けるポーズを取り続けている。その姿勢はいつまでも変わるはずがないのだけれど、将来再会したとき、私は何を感じるだろう。

7月号「切りたての法面」  福島県道16号喜多方西会津線道路改良工事(福島県喜多方市)
 
グラデーションのような地層は、たぶん河口付近の海底に少しずつ積み上がった土砂が地上に隆起してできたものだろう。長い年月をかけて形成されたに違いない。カーブが多い山道を車が走行しやすくするために新たな道を切り開く工事現場に現われた切土法面だ。
土木工事そのものは自然を改変する行為なのだが、そこでは自然の成り立ちについて考えさせられることが多い。鮮やかな法面を目の前にして、「地形の輪廻」という言葉を思い出した。
平坦だった地形は水によって侵食され、川が流れ、急流となり、V 字谷を形成する。徐々に尾根は尖り、起伏が大きくなるが、やがて尾根も侵食されるようになると、起伏は緩やかになり、元のような平坦な地形に戻る。これは、アメリカ人の地理学者ウィリアム・モーリス・ディヴィスが1880年代に提唱した地形の形成過程に関する仮説だ。
宗教が説く「輪廻転生」と直接関連付けられるものではないが、人の一生をなぞるように地形の変化を「幼年期」、「壮年期」、「老年期」ととらえ、いつかは元の姿に戻るという地形の輪廻の考え方に、死生観として共感を覚える。人と地形とでは、その周期に計り知れない違いがあり、人が地形の変化に気付くことは稀だが、ともに不変であり続けることはない。
工事現場のすぐそばには、すでにショートカットが完了した道路があった。真新しい道路とは対照的に、その横で車が通らなくなった道路が朽ち始めている。人の手を離れた途端、再び地形の輪廻に組み込まれようとしているかのように見えた。土木も自然の一部であり、ゆくゆくはすべてが自然に還るのだろう。

8月号「10年越しの構想」  神田川・環状七号線地下調節池第二期事業(東京都杉並区)
 
2005年、東京都建設局が進める神田川・環七地下調節池の第二期事業は工事の終盤を迎えていた。神田川などが増水した際、川の水を一時的に内径12.5mのシールドトンネルの中に貯めておくためのものだ。第一期事業として、1997年に完成していた長さ2qのトンネルへ、さらに長さ2.5qのトンネルを接続することで全体で最大54万m3の水を貯留できるようにした。プロジェクトは都市の内水氾濫の対策として、完成が急がれていた。
当時、学部4年生だった私はその年の8月、所属するシールドトンネル研究室の恩師の引き合わせもあり、地下調節池となるトンネルを撮影する機会を得た。坑内はまだ工事用設備の解体中で、このときはあくまでもテスト撮影と考えていた。完成後の撮影となれば、明かりはない。漆黒の闇となることを想定し、フラッシュを用いて、撮影を試みた。浮かび上がったイメージは、申し分ないものだった。
しかし、この1ヶ月後の9月4日から5日にかけて、杉並区をゲリラ豪雨が襲う。既存の調節池だけでは、あふれる水をさばききれず、東京都建設局は完成目前のトンネルにも水を取り込むことを決断。トンネルは見る見るうちにその機能を発揮し、被害を最小限に食い止めたという。ただ、工事機材は水没、現場はぐちゃぐちゃ。撮影どころではなくなってしまう。
いつの間にか10年以上の歳月が流れた。久々の再会を果たしたトンネルは、そのセグメントの表面に、何度も水で満たされただろう履歴を残していた。目立った違いといえば、それくらいだろう。かつて工事を担当した都の職員さんが写っていることが私の中でイメージの完成度を高めている。

9月号「鉄のユートピア」  河内貯水池(福岡県北九州市八幡東区)
 
雨はダムのある風景に幽玄の美を演出するとともに、老いた堤体に潤いを与えた。細かな光の反射が石のエッジを堤体の隅々まで際立たせ、全体に立体感をもたらす。石張りダムがまるで鱗のようだ。
1901(明治34)年に操業を開始した官営八幡製鉄所の増産を目的として、1919(大正8)年に着工した河内貯水池が完成したのは、1927(昭和2)年のことだ。当時、重力式ダムの施工は、使用するコンクリート量を抑えるため、30p以上ある石を骨材とする粗石コンクリートを用いることが多かった。切り出した石を型枠として使うので、堤体の表面は石を積み上げたようになる。これが石張りダムと呼ばれる所以だ。
設計と施工は堤体だけでなく、関連する送水路や道路橋、管理所などの建築物に至るまで、製鉄所の土木技師・沼田尚徳(1875〜1952年)が中心となって進められた。沼田は「土木は悠久の記念碑」という思想のもと、構造物の品質管理だけではなく、意匠まで気を配ったと言われ、手がけた作品は今も貯水池の周辺に点在する。
石張りダムのテクスチャーを活かし、堤体をヨーロッパの古城に見立てて設計したことも、その一例だ。ただし、意匠を施した高欄や取水塔には堤体に取って付けたかのような不自然さがない。これは、技術者のセンスの表れだろう。
手が込んだことを実際にできたのは、国の基幹産業のけん引役だった製鉄所の整備に、潤沢な国費が投じられていたからこそのことだ。現代から考えると、往時の八幡製鉄所は技術者にとってのユートピアのような場所だったのかもしれない。そのことに気づいたとき、この地域一帯が産業遺産のユートピアのように思えてきた。

10月号「土木のようなもの」  出雲日御碕灯台(島根県出雲市)
 
その構造物が土木に分類されるのか、あるいは建築なのか、いちいちこだわるのは私だけだろうか。たしかに、両者を線引きしたところで、特に意味があるわけではない。ただ、「橋を建築する」というような表現には、土木屋ならば、違和感を持つことだろう。それは、ある種のアイデンティティの表れかもしれない。
土木遺産に興味を持つようになったころ、私は灯台がそれに含まれていることに違和感を持った。「○○タワー」と称されるような建築物と同様、周囲から独立した塔状の構造物は建築に分類されるものとばかり思っていたからだ。
灯台が土木であることに納得のいく説明が欲しかったが、明確なものは見当たらなかった。そこで、手掛かりを得ようと、土木構造物がない状況について、いろいろと考えてみたことがある。
たとえば、橋。橋がなければ、前後にある道路は交通路として使えない。たとえば、ダム。ダムがなければ、下流域は洪水の危険にさらされるだろうし、水道の供給は安定しないかもしれない。二つの土木構造物に共通して言えるのは、設けられた地点だけでなく、その機能が効果として別の場所にも及ぶということだ。
では、灯台はどうか。出雲日御碕(いずもひのみさき)灯台の場合、海面からの高さ63.3mより放たれた光は39q先まで達するという。光が届かなければ、沖合を航行する船は、自らの位置を確認する手段を一つ失うことになる。どうやら灯台にも、橋やダムと同じことが言えそうだ。
土木が持つ特性に気付いてから、いろいろなものに土木的な要素を感じられるようになった。私の中の土木の定義も、やがて書きかわっていくことだろう。

11月号「郷土の災害のリアリティー」  広村堤防(和歌山県広川町)
 
和歌山の小さな漁港に、1855年から4年間かけて築かれた津波防潮堤がある。高さは約5m、全長は630m以上に及ぶ。1854年の安政の大地震で発生した津波で被災した村の復興のため、地元の実業家だった濱口梧陵(ごりょう)(1820〜1885年)らが私財を投じて、整備したものだ。この堤防はその後、何度となく来襲した津波からまちを守ったという。堤体に生える草木は手入れが行き届いていることからも、今でも周辺住民にとって、身近な存在であることがうかがい知れる。
ところで、濱口は地震の際のエピソードを基にして創作された物語『稲むらの火』の主人公のモデルとしても有名だ。私がこの話を知ったのは、小学生のころに見たテレビアニメだったと思う。ただし、当時はこのことを昔話の一つとしかとらえておらず、また、津波という災害が現代の日本で起こることなど想像したことがなかった。
決して、災害に対する意識が低かったわけではない。内陸部に住む子どもには、リアリティーが足りなかったのだ。
私が育ったまちには、「震生湖」という湖があった。湖の名前は、1923年の関東大震災で発生した土砂崩れによって、川が堰き止められてできたことに由来する。小学校では、関東大震災とともに震生湖について習った際、土砂崩れに下校中の2名の小学生が巻き込まれ、行方不明になっていることを知る。細かなエピソードはないが、そのことが妙に印象深く、地震災害の恐ろしさを身近に感じていた。
災害の記憶は、後世の人にしっかりと伝承できれば、人類の財産になりうる。一方、災害が多発する日本だからこそ、一つひとつの事象は記憶として風化しやすい。災害を身近に意識するためには、まずは地元のことから知るべきだろう。災害と無縁なまちなどどこにもないはずだ。

12月号「当たり前になる前に」  八ッ場ダム建設事業(群馬県長野原町)
 
最初にこの地に足を踏み入れたのは、2007年の暮れのことだった。2回目はそのちょうど2年後。日本中が政権交代に揺れ、ダム計画が凍結された直後のことだ。
2度の訪問は、ダム湖予定地に建設していた2本の湖面橋の工事取材が目的だった。湖を渡るそれぞれの橋には、人々の目を引くような構造デザインが採用され、特徴的な架設工法が用いられていた。
当時はまだダム本体の工事が始まっておらず、すべては準備工事に過ぎなかった。それにもかかわらず、橋の架設ばかりがダム事業の象徴として、世間の注目を集めた。多くの工事現場は、人目につきにくい山の上にあったのだから無理もない。
私もその例外ではなかったことを後から思い知る。6年のブランクを経て、3回目の訪問を果たした際、一度として施工中の姿を見ることがなかった3本目の湖面橋から眼下を見渡した。そして、初めて、どこにダムサイトがあって、どこが湖に沈むのか、認識したような気がした。結局、それまでは橋しか見てはいなかったのだ。気付けば、国道も鉄道も付け替えられ、人の営みは山の上に移っていた。かつてここにどのような光景が広がっていたのか、私には、記憶も記録もないに等しい。
今、線路跡には、骨材を運ぶベルトコンベヤーが延々と敷かれ、ダムサイトでは、昼夜を問わずコンクリートバケットを吊ったケーブルクレーンが行き来している。そう遠くない将来、ここは湖に沈む。沈めば、ダムの存在は既成事実になる。事業の是非のことだけではない。八ッ場ダムがあって当たり前の社会が担保されるということだ。そうなる前に、関東1都5県の「流域民」には、ダムができる前のこの風景をどうかその目に留めて欲しい。

■2015年

土木巡礼(2015年の土木学会誌表紙写真)

■2014年

土木巡礼フォトギャラリー
(土木学会100周年記念事業アーカイブのページに移ります)

© Japan Society of Civil Engineers 土木学会誌編集委員会