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第I編 激動の10年を振り返る

第2章 10年の主な出来事

2.社会の成熟化と多様化する価値観

2.1 自然との共存・再生への模索

 この10年(1995-2004)は,1992年のリオデジャネイロのサミットをきっかけに環境問題が地球規模のレベルで議論されることが常識化した時代に当る.また,リオのサミットと同年に締結された「生物多様性条約」により,生物多様性の戦略的保全が世界各国に要請されるようになった時代でもある.水質,廃棄物,エコ・ロードに代表される野生生物への配慮など,公共土木事業においては従前から環境問題や生物への対応がなされていたが,それがより広範に,また事業そのものの成否を左右することが認識されるようになったのがこの10年ということが出来よう.
 公共事業全般に関し1994年には「環境政策大網」が定められ,また1997年には「環境影響評価法」が成立した.後者は建設省所管事業に係る「環境影響評価実施要網」(1985年)を受けたもので,これらにより公共事業の実施にあたっては環境アセスメントを始めとして環境へ配慮することが当たり前とされる時代となった.この動きと軌を一にするかのように1987年河川法が改正され,環境が河川事業の内部目的化した.つまり重要な事業目的の柱と位置づけられたのである.
 河川においては1991年に開始された多自然型事業により,環境の保全から一歩進んでより積極的に自然を再生しようとする試みが始まっていたが,1995年の生物多様性国家戦略,その見直しによる「新・生物多様性国家戦略」(2002年)の策定に伴い,2002年には自然再生事業制度が創設され,翌2003年には自然再生法が成立する.釧路湿原の自然再生に代表されるように環境行政・政策と河川事業はもはや切っても切れない関係になりつつある.それがこの10年の動きを象徴している.
 この自然との共存・自然再生の動きは恐らく河川にとどまることなく,2003年の「美しい国づくり政策大網」にも謳われる公共事業における美しさの内部目的化ともあいまって,海浜,砂防,ダム等の公共事業及び農山村や地方都市の再整備の主要課題となることが予想される.

[篠原 修]

2.2 都市再生と地方都市の衰退

 この10年は地方分権が本格化した時代であり,にもかかわらず地方都市が,特に地方都市の中心市街地の衰退が顕在化した時代である.
 高齢化,少子化により都市への人口集中は鈍化し,都市計画も従来の新市街地整備から既存市街地の再編を中心とする,いわゆる成熟型の都市計画へ方向転換を余儀なくされるに至った.しかしバブル崩壊以来長引く不況とそれに伴う財源不足により,またかねてからの都市計画と商業立地政策の不整合により,東京のみが栄え,地方の中核都市すらもが衰退するという,かつて味わったことのない危機的状況に至ったのがこの10年であった.
 1995年に地方分権法が成立し,これを基により一層の地方分権を推進するための地方分権一括法が2000年に成立した.この法に基づき,都市計画決定事務が市町村に移管された.これを担保するのが2000年の都市計画法の改定である.法的には積極的な住民参加を謳い,地域の実情に密着した個性豊かなまちづくりへの途が開かれたのである.
 しかし,従来から軋轢の絶えなかった既成中心商店街と郊外立地型の大型商業施設の関係は改善されず,1998年成立の大規模小売店舗立地法の規制緩和により,中心市街地は決定的なダメージを蒙ることになった.駐車場の不足,魅力ある品揃えが出来ない,後継者難などの問題を抱え,さらには公的な都市計画が私の活動である商業に冷たいという,公と私のかい離が中心市街地を空洞化させたのである.この状況を何とかしようとする動きが同年(1998年)に成立した「中心市街地における市街地整備改善及び商業等の一体的推進に関する法律」(中活法)であり,この中活法により経済産業,国土交通,農林水産,厚生労働,文部科学,総務等の各省挙げての補助事業制度が拡充された.しかし,その効果が目に見える形で現れ始めてくるのはごく一部の地方都市でしかない.都市崩壊の危機を叫ぶ一方で,自らが役所や病院,図書館,体育館等の公共施設を郊外に移転してしまい,また,何はなくとも車という車依存体質から抜け出そうとしないのでは,この危機は突破できるはずもない.
 この深刻化する状況を受けて,2002年には「都市再生特別措置法」(都市再生法)が成立した.しかし,この法による都市再生プロジェクトの決定(第一次2001.6,第二次2001.8……第五次2003.1)を見れば都市再生の眼目が東京圏を代表とする大都市圏にあることがわかる.世界都市,東京および大阪圏他へのてこ入れだけという本音がみえ,地方都市については地方都市へゲタを預けたという姿勢なのであろう.国としては打つべき手なしというようにも読める.
 以上のような状況下にあって今後を予測すれば,やる気のある,目先の利く自治体のみが勝ち残っていく都市間競争の時代が,今後の10年なのであろうと思われる.
 都市再生は地域に住む人々,とりわけまちづくりに係る土木技術者に重い課題を投げかけているのだと言えよう.

[篠原 修]

2.3 環境影響評価法の制定

 一定規模以上の開発事業を計画・実行する際には事前に周辺環境への影響を調査・予測・評価し,必要に応じて事業者が計画の見直しを含めた対策を講じなくてはいけない.このような考えに基づいて,多くの国が環境影響評価(環境アセスメント)を制度化してきた.日本でも1972年「各種公共事業に係る環境保全対策について」の閣議了解,1984年の環境影響評価実施要項の閣議決定などを経て公共事業の環境アセスメントが行われてきたが,環境アセスメントの法制化は1997年6月「環境影響評価法」制定,1999年6月の全面施行を待たなければならなかった.その意味ではこの10年間は日本の環境アセスメントの歴史にとって重要な進展を見た10年であったといえる.
 初期の環境アセスメントは,事業者に大規模開発のお墨付きを与えるための,そしてそのためだけの制度であるといった批判が絶えなかった.環境影響評価法は次の点をもってこの問題にこたえている1)2).
 対象事業を発電所,港湾計画,大規模林道,民間事業の鉄道等に拡大した.また事業類型として,必ず環境アセスメントを行う大規模な事業(第1種事業)と,それ以下でも必要に応じて環境アセスメントの要否を判断する事業(第2種事業)の2つを設けた(スクリーニング).
 環境アセスメントを実施する方法は,従来マニュアルである実施要項に従っており,調査項目もそこで規定されているものに限られていた.環境影響評価法では個別事業の特性を考慮して,事前に環境アセスメントの実施方法案を作成・公開し,関係者の意見を踏まえた上で決定する制度(スコーピング)を設けた.また,調査項目も生物多様性,地球環境,廃棄物等の新たな項目が評価の対象となった.
 情報公開の原則が具現化され,住民関与の機会が拡大した.環境影響評価法の規定では,地域住民,一般市民は環境アセスメントの方法書と,準備書の双方に対して意見を提出することができる.また,環境大臣が必要に応じて事業の許認可権者に対して意見を言うことが可能である.準備書に関しても,環境保全対策の検討の経緯を記述する等,評価の過程と結果が評価者以外の観点から見ても理解しやすいものであることが求められている.
 これらの方策が大きな前進である一方で,今後引き続き取り組むべき検討課題も多い.そのひとつが,事業段階前の政策・計画段階において環境アセスメントを実施するという,戦略的環境アセスメント(Strategic Environmental Assessment:SEA)の考え方である3).SEAは環境影響評価法を所管する環境省をはじめ多くの官公庁や地方公共団体で現在検討が盛んに行われている.環境社会配慮に欠けた開発事業を防ぐことのできる真の意思決定プロセスを,日本社会が構築するための努力が続いている.環境影響評価法の制定は,紛れもなくその大きな一歩として環境行政史に残るだろう.

[堀田 昌英]

参考文献


2.4 プロジェクト実施方法の多様化

 建設プロジェクトを実施する方法も多様化している。政府や地方自治体の財政状況が逼迫する中で,従来の仕組みを変革しなければ時代の要請に応じた社会基盤サービス・施設を提供していくことは最早不可能であるとの認識が定着している。そこで従来大部分を公共部門が担ってきた公共事業のうち,民間部門に優位性がある部分は民間に委ねようとするのがPFI(Private Finance Initiative)をはじめとする一連の取り組みである。PFIはより少ない財政支出で質の高い公共サービスを提供するために,民間部門の資金調達・運営能力を活用する事業枠組みを規定するものである。当初1992年に英国で導入されたが,日本でもほぼ同時期に財政構造改革の一環として検討がはじまり,1999年9月には「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律」(PFI推進法)が施行されている。公共サービスの特質を踏まえた上で官民の責任と役割分担を明確にし,かつ柔軟な協働方法を構築する試みとして,これらをPPP(Public Private Partnership)の一例と捉えることもある1)。
 2004年6月23日の時点で,2000年告示の「PFI基本方針」以降に実施方針が策定・公表されたPFI事業は国の事業が16件,地方自治体の事業が113件,特殊法人その他公共法人の事業が26件,の計155件である。国の事業,特殊法人その他公共法人の事業は学校施設,庁舎,公務員宿舎等の建築物主体の例が大部分を占めている。地方公共団体の事業では,これらの分野に加え港湾,上下水道,公園,廃棄物処理などの事例も見られる。日本においてはこれまでのところ,土木分野のPFI事例が建築分野と比べて少ないという指摘がたびたびなされてきた。一方でそもそも国内のPFI事業全体が施設整備主体に偏重しており,運営・経営方法やサービス内容について民間部門の創意工夫を一層活用することが課題であるとの論もある。
 PFIの具体的な事業方式は建設(Build),所有(Own),運営(Operate),譲渡(Transfer)の各段階の組み合わせ方によって,BOT (Build Operate Transfer),BTO(Build Transfer Operate),BOO(Build Own Operate)などの類型に分けることができる。現状では税制や補助金制度の理由からBOTからBTOの移行が進んでおり,2003年9月の時点で約3分の2の案件がBTO方式を採用しているという報告もある。事業方式を含め,公共部門と民間部門のリスク分担方式,入札方式,PFI事業者への金融制度等,これまでに指摘されている諸課題について現在も検討が続けられている。民間企業の参入のみならず,今後は非営利部門なども含めた協働方式などプロジェクトの実施形態は一層多様化していくことが予想される2)。

[堀田 昌英]

参考文献


2.5 土木構造物に関する市民意識の変化−新しい顕彰制度

 この10年に新しく3つの顕彰制度が誕生している.1999年の土木学会環境賞,2000年の選奨土木遺産,2001年のデザイン賞である.これらの賞をここでまとめて取り上げたのは,評価の基準はそれぞれであっても,その視点には共通のものがあるのではないかと考えたからである.すなわち土木構造物そのものに限定されることなく,まさにこれが存在する時間と空間の中での意味や影響力に着目し,社会に対し積極的にアピールする,という点である.環境,景観,歴史性への配慮は,技術者・設計者の技量と市民の視線の交錯する部分であり,そうした点への配慮が伺える土木技術・施設が,市民にも支持され,大切にされるのではないか.そこにこれらの賞が新設された意味があると考えたからである.
 土木学会環境賞は,環境への負荷を低減する土木技術・システムを開発運用し,良好な環境を保全するとともに,より豊かな環境の創造に貢献した特筆すべき業績および環境の保全・創造に貢献した画期的プロジェクトに授与されるものとして,9つある土木学会賞の一つとして創設された.これまでの実績を見ると,分野別では水環境分野と廃棄物リサイクル分野が多い.受賞主体は,ゼネコンを中心とする民間企業が最も多く,地方公共団体と公益法人等がこれに次いでいる.
 デザイン賞の正式名称は,土木学会景観・デザイン委員会デザイン賞である.デザイン賞創設の趣旨について,当時の景観・デザイン委員会委員長中村良夫は,学会誌で以下のように述べている.
 「土木技術はその第一義的な機能を超え,その存在自体が麗しい国土と都市をつくる.時空を超えて育まれるこの国土美こそ国民の恒産を成し,一国の信頼に関わる大事であることは疑い得ぬ事実と思える.(中略)公共事業の存在理由の問われる今,文明の目標としての美しい国土運営を委任された土木技術者への信頼を繋ぎとめる手はない」. したがって賞の対象は公共的な空間や構造物であるが,計画や制度を活用して景観保全がなされたような場合も対象としている.デザイン賞には,最優秀賞と優秀賞があり,初年度は最優秀賞5,優秀賞12であった.
 一方,土木遺産の文化財としての評価もこの10年で定着したといえよう.1996年2月重要文化財の指定基準に「土木構造物」が明示され,以後「旧横浜船渠第2号ドック」,小樽の「旧手宮鉄道施設」等が重要文化財として指定された.また1996年の文化財保護法改正により導入された登録文化財制度により,毎年多くの土木遺産が登録文化財となっている.
 土木学会でも選奨土木遺産の制度が設けられた.これは,土木遺産を文化資産として社会にアピールし,先人の熱き思いを語ることで今の土木技術者に自信と目標を与え,かつ地域の個性を生かしたまちづくりに活用することを目的としている.これの選定には,選奨土木遺産選定委員会が当たるが,実際には各支部におかれた選奨土木遺産支部選考委員会が,「日本の近代土木遺産-現存する重要な土木構造物2000選(土木史研究委員会編)」(2001年)から選ぶことになっている.現在は年間10件を選定している.この選定を機に,地元での見学会やシンポジウムなどPR行事が組まれる例が多い.
 この「日本の土木遺産」は,1991,1992年の中部5県調査を皮切りに,1993〜1998年にかけての全国調査で,日本各地に残る近代土木遺産をリスト化したものである.「日本の土木遺産」の刊行は,いわばこの10年の前半の成果といえる.今後はリスト化された施設の追跡調査とともに,近世以前の調査と評価への拡大が課題となっている.
 一方では,土木遺産をめぐる市民の活動も見られるようになった.1999年に大谷川橋梁(東武鉄道)の岩見沢里帰りを実現させた運動,2000年旧士幌線の橋梁保存に尽力した市民等を中心に設立されたNPO法人「ひがし大節アーチ橋友の会」,1997年に結成された「土木の文化財を考える会」などがそれである.
 また学校教育との連携では,総合学習の時間に各地の土木遺産を取り上げる例もふえていることから,小学校上級向けの土木の絵本シリーズも刊行され,全国の小学校と主要図書館に贈呈された.

[昌子 住江]

参考文献


2.6 女性技術者の進出

 この10年間は,女性技術者を取り巻く状況として,特に男女共同参画社会の実現へ向けた法制度が飛躍的に進展した時期と位置付けることができる.表-1にこの10年の状況の変化に大きく関連する主な施策とその内容を整理した.男女雇用機会均等法,労働基準法,育児・介護休業法の実効性強化に向けた法改正,男女共同参画社会基本法の制定,具体的数値目標を設定したポジティブ・アクションなどが特徴的である.


表-1 女性技術者を取り巻く状況の変化
主な施策内容
1985「男女雇用機会均等法」成立雇用の分野における男女の均等な機会および待遇の確保を推進するために,労働省関係の法律を整備する.事業主の講ずべき措置,実効担保の措置,女子労働者の就業に関する援助の措置等
1986労働省が「雇用法施行規則」,「事業主が講ずるよう努めるべき措置についての指針」,「女子労働基準規則」を制定,公布
1988「男女雇用機会均等法施行および女子労働基準規則の一部改正」公布住宅の貸与に独身寮の貸与を含め,女子の深夜業の禁止の例外に健康および福祉に有害でない業務を追加
1991「育児休業法等に関する法律」成立子を養育する労働者の雇用の継続を促進し,労働者の福祉の増進を図り,経済・社会の発展に資することを目的として,事業者が講ずべき措置を規定
1993厚生省,「エンゼルプラン(子育て支援のための総合事業計画)」発表少子化対策の一環として,子どもを持ちたい人が,安心して出産や育児ができるような環境を整備することを目的とした総合的協力システム作りの具体的施策
1994総理府に男女共同参画室および男女共同参画審議会を設置男女の人権が尊重され,かつ,社会経済情勢の変化に対応できる豊かで活力ある社会を実現することの緊要性に配慮
「男女共同参画推進本部」(本部長・内閣総理大臣)を設置
1995「育児休業法の一部改正」(介護休業制度の法制化)法律名を「育児休業,介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」に改正.事業主が講ずべき措置,対象労働者に対する国の支援措置等
1996男女共同参画審議会が「男女共同参画ビジョン」を答申
「男女共同参画2000年プラン」策定
1997「男女雇用機会均等法」の一部改正事業主の努力義務であった募集・採用,配置・昇進について,女性に対する差別を禁止.事業主が講じるポジティブ・アクション(男女労働者の間に事実上生じている差を解消するための取組み)に対し国が援助できる規定,セクシュアル・ハラスメント防止,母性保護の充実に関する規定等を設定.女性の職域拡大を図り,男女の均等取扱いを一層促進する観点から,女性労働者に対する時間外・休日労働,深夜業の規制を解消.育児や家庭介護を行う男女労働者に深夜業制限の権利創設
1998改正男女雇用機会均等法一部施行
1999改正男女雇用機会均等法,改正労働基準法,改正育児・介護休業法の全面施行
「男女共同参画社会基本法」制定男女共同参画社会の形成に関し,基本理念を定め,国・地方自治体・国民の責務を明らかにし,男女共同参画社会の形成促進に関する施策の基本事項を定めることにより,男女共同参画社会の形成を総合的かつ計画的に推進
2000「男女共同参画基本計画」策定
2001男女共同参画会議「仕事と子育ての両立支援策の方針に関する意見」を提出,閣議決定
2002母子および寡婦福祉法等の一部を改正する法律
2003「女性のチャレンジ支援策」決定2020年までに管理的職業に従事する女性の割合を30%以上にすることを目標とする「ポジティブ・アクションの推進」や「身近なチャレンジ支援」として,チャレンジしたい女性が必要とする支援情報を関係機関の垣根を越えて「いつでも,どこでも,だれでも」ほしいときに簡単に入手できる「チャレンジ・ネットワーク」の実現を目指すことなどが柱
「次世代育成支援対策推進法」および「児童福祉法改正法」成立2003年および2004年の2年間を次世代育成支援対策の基盤整備機関と位置付け,一連の立法措置を講じることとし,地方公共団体および企業等における今後10年間の集中的・計画的取組みを促進する

 女性技術者数については10年間を通して土木系業種全体の実態を示す調査データはないが,土木学会,女子学生および女性技術者のネットワークを通して得られた情報をもとに推定した.2004年8月現在の土木学会の会員状況を表-2に示す.残念ながら,土木学会では比較的近年まで入会申込書に性別を記入する欄がなかったことと,女性技術者に着目した統計的処理を行っていないため過去に遡った数値データはない.   10年前の状況については,土木学会から1996年9月に発行されている「土木と女性技術者」と題した土木学会誌の別冊増刊号によくまとめられている.ここに当時の女性技術者を取り巻く状況が,(1)土木系大学・短大・高専の学科長,(2)土木系学科の女子学生,(3)建設会社・建設コンサルタント・電力・運輸など土木工学を専攻した学生の採用者,(4)既に土木の仕事に従事している女性土木技術者,(5)男性土木技術者,それぞれを対象としたアンケート調査結果をもとに分析されている.
 この中で,土木系女子学生の割合については,1987年以前は在籍学生総数の1%未満であったものが,1994年には5.8%(総在籍学生数12 513人に対して)となっている.これには,男女雇用機会均等法制定など労働環境の整備が進みつつある社会趨勢に加えて,土木工学科の名称変更に伴う影響が大きかったものと見られる.最近では,これに匹敵する詳細な調査は行われていないが,土木系学科の1割以上が女性である大学も珍しくないことや,土木学会の学生会員に占める女子学生の割合が7%強であることなどから,現在は在籍学生に占める女子学生の割合は約1割程度であり,1 000人程度の女子学生が土木系の学科を卒業していると考えられる.
 土木系の仕事に従事している女性のネットワークには,土木技術者女性の会(土木学会誌(1982年9月号)紙上で企画された「女性土木技術者の座談会」がきっかけで発足.「日本全国で孤軍奮闘している女性の土木技術者が情報交換できるような会を...」と同誌紙上で呼びかけ)があり,会員数の変遷をみると1982年の発足当時は約30名であったものが,建設業界の好況の時期も反映して1994年には約150名に増えている.1998年頃から230名程度と横ばい状態だが,就職難の時期と重なったことに加え,土木系学科に複数の女子学生がいることから比較的個別のネットワークを作り易い状況になったこと,法整備の充実により女性労働者特有の問題による個人への負荷が比較的軽減されたことなどを勘案すると,この10年間で女性技術者が倍増したことが伺える.図-1に土木技術者女性の会の職種構成の変遷を示す.景気の好不況を反映し,この10年間で建設会社の比率が減少し,官公庁が増加している様子がわかる.


表-2 土木学会の会員状況(2004年8月末日現在)

会員数女性会員数女性会員の割合
正会員
(フェロー会員)
33511
-2264
499
-3
1.5%
-0.1%
学生会員5,2783747.10%
合計38,7898732.30%

図-1 土木技術者女性の会会員の職種構成の変遷
[須田 久美子]

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