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第I編 激動の10年を振り返る

第1章 歴代会長が語るこの10年

3.災害緊急対応部門,企画運営連絡会議,技術推進機構の発足,JSCE2000の策定など,一連の学会改革を通じ,組織に進化性を加える.

松尾  稔 第84代会長
松尾  稔(まつお みのる) Minoru MATSUO 第84代会長
 (1936〜)工博 名誉会員 1962年京都大学大学院修士課程修了,京大助手,65年京大助教授,72年名大助教授,78年名大教授,89年名大工学部長,98年名大総長,日本学術会議第15期〜17期会員,94年地盤工学会副会長.75年土木学会論文賞,85年著作賞,03年功績賞,99〜02年大学基準協会副会長,01〜03年国立大学協会副会長,04年国立大学協会専務理事,科学技術交流財団理事長,各種審議会委員等を歴任.

パラダイム変換の予感の中で

 会長に就任した当時,私は,技術をはじめ,政治,経済などあらゆる分野でパラダイム・チェンジが急速に起こりつつあるという予感を抱いていた.そこで,学会の役割や機能を改めて明確にすべきではないかと強く感じた.
 私はまさに安保世代の人間であり,昔から常にアメリカの戦略というものを考えていた.それは,たとえば安保条約に代表されるように,軍事力を表面に打ち出し,経済,文化,高等教育研究などを後ろに隠し持ち,世界を制覇していくというやり方である.
それが,ゴルバチョフが現れ,冷戦が崩壊していくなかで,次は資格や基準の問題を,アメリカが表面に打ち出してくるのではないかと思った.一方,ヨーロッパでは,ユーロコード(ヨーロピアンコード)を地道に積み上げ,規格への対応を行っていた.日本でも早く対応していかないと,大変なことになると思っていたのだ.
 具体的に危機感を感じたのは,ASCEがアジア土木会議を主催したことにある.それは自分にとってはアメリカの戦略として映った.そこから,アジアの先進国である日本が,リーダーシップをとっていかないと,最後にはアメリカに負けるという気持ちが起こった.
 JABEEにしてもそうである.これから諸問題をかかえて,やっと土木学会の技術推進機構が動き出すことになった.確かに遅れはしたが,皆さんの努力で回復不能な遅れということは免れた.それは,土木学会としても自信を持っていいことだと思う.

客観性と中立性を保つ

 国内では,1995年1月17日に,阪神・淡路大震災が起こった.土木学会にとっては非常に大きな出来事であった.震災は学会の社会貢献や評価機能など,改革を考えるきっかけになった.
 学会にとって大事なことは,客観性を持つということと,官にも民にも偏らない中立の立場を保つということである.そのなかで,情報提供をはじめ,どのような役割を果たしていくか.カリフォルニアの地震の時には,多くの構造物が破壊されたが,日本の土木技術者や官側では,あれはアメリカの話であって日本では絶対そんなことは起こらないと言っていた.
 しかし,現実には阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた.それまで,土木学会は中立的な立場に立ち,構造物の強さや,それらの考え方がいかにあったかということを,パブリックに公知する情報公開をしてこなかった.そのことに対して,私は即刻謝罪をすべきだと主張した.しかし,学会の中枢にいる者がそんなことを言ってもらっては困ると言われた.私はそれではダメだと思う.学会は中立な立場で情報を公開し,社会に技術等の発展や評価を通じて貢献しなければ,学会の意味や役割はないと思うからである.

災害緊急対応部門を立ち上げる

 私が直接的な社会貢献ということを提案するきっかけになったのは,震災もそうだが,それより数年前に,8大学工学部長会議でのことがあったからだ.そこで私は座長を3年間務めていたのだが,その時に「工学」の定義を本気で議論した.そこで到達したのは,「工学」というのは「現実の社会における技術に対する学問体系」と位置づけたのである.「工学」は,現実の社会との双方向の関係なくしてありえない.それが,私が「直接的」といっている意味である.
 第19期の学術会議では,それが大きな目標となっているという.それはすばらしいことである.私が学術会議の会員になったのは15期で,今から13〜14年前であり,当時54,5歳で一番若い会員であった.その頃,社会に対する貢献,産学協同という言葉自体がタブーであった.しかし,どんな研究でも大名からお金を貰って個人的にやっているわけではない.国民の税金でやらせていただいている.それ故に,明日のためにということではなくても,社会へ還元すべきは当然であるということを,第16期から工学が主導して行った.第5部(工学)はリーダーシップをとっていたし,その先端を土木が走っていたといえる.今では社会貢献の議論は当然で,昔からすると隔世の感がある.
 災害に関しては,会長時に,災害緊急対応部門を立ち上げた.ここで私が求めたのは,学会が直接的にボランティアとして力仕事で人助けをすることも必要だが,起こった現象を現場が変状する前に忠実にとらえるということが大事であるということである.災害はローカリティを持っており,地方にもすぐに調査に出て行けること.それから,大きな災害を受けたところだけを調べるのではなく,同じ雨が降り,同じ地震に見舞われているのに,人的被害はひとつも起こっていないところもあり,それがなぜかということを同時に調べ,社会に公知していくことが,学会の役割であると考えた.そこで災害緊急対応部門をつくったのだが,今では土木学会の大きな活動の柱になり,忙しく活動をしているということで,うれしい限りである.

企画運営連絡会議を発足

 学術・技術の進歩に貢献するということも,私が学会の目的として取り上げたことである.学術・技術の進歩は,「成果」を上げるということと,それを正当に「評価」するということの両輪で果たされる.それがなければ,進歩はない.そのためには,評価の部分をきちんと担っていくことが学会の役割である.
 また,企画運営連絡会議も発足させた.土木学会の会員は多いが,理事や事務局などの組織は小さい.それが細かく縦割りになっており,学会全体として企画立案や連絡機能が乏しいと感じた.そこで,理事会直結の機関をつくり,学会全体としての将来像や企画立案をしてもらい,横の連絡調整を図ってもらうという組織をつくった.企画運営連絡会議をつくったことが,改革の大きな推進力になり,JSCE2000の策定や,定款の改正,倫理規定の改定につながっていった.
 私は学会の役割を3つ掲げた.ソサエティとしてお互いの情報や研究成果を発表し,交流を通じて高め合う.学会というのはもともとそういったことからスタートしているので,それは別とすれば,2番目の「学術・技術の進歩を通して」ということでは,それを構成する人の資質の向上が基本になっている.社会への貢献に対しても資質の向上がベースになる.それらは学会の施策として具体化してもらっていることでありがたいことである.
 私が危機感を感じていたのは,資格問題でアメリカが攻めてくるということである.日本の土木学会の会長として,アメリカ土木学会のラウンドテーブルに出ると,全部その話になる.アメリカと資格認定を行えば,ヨーロッパなど他の国でも通用する.しかし,資格問題を考えていくときに抜かしてはいけないのは,これからの若い人たちはもちろん,現存の土木学会会員である.土木学会の会長として考えると,当時の4万2000〜3000人の会員の人たちを,いかにすれば国際的な相互承認で救えるかを考えた.それらの人を救わないと土木学会は分解してしまう.欧米の資格は高等教育に連動しているが,日本の資格は連動していない.高等教育と連動した形でないと,相互承認は難しい.そこで私は「防災」というテーマでアメリカと手を結ぶことを考えた.「防災」なら,水や土,構造など,ほとんどの会員が何らかの形で関与できるからである.未完だが,「一つの可能性」として残しておいて欲しい.

中立的な評価機関を持つ

 会長の時に,倫理規定の改定にも関わったが,我々の先達である青山 士さんが,1938年にどの学会にも先駆けて倫理規定を作られた.それは我々にとっても誇りに思うことである.私は,チャレンジャーの事故が起こったときから,技術者倫理の問題が強く念頭にあった.技術者はプロフェッションとして一流であることはもちろんだが,発注者,上司に対して忠実でなければいけない.そのうえに,公衆(パブリック)に対しても忠実である必要がある.この現実が衝突を生む.発注者,上司に忠実であろうとすれば,公衆に対して不誠実になる場合がある.
 私が若い人や卒業生に常に言っているのは,たとえ会社を首になったり,家族が路頭に迷うことになったりしても,あくまでもパブリックの立場に立って判断をすべきであるということである.判断は自分でやってもいい.技術者というのは,専門分野のことを知っているから技術者なのである.技術者はジャッジできる.しかし,「当事者」の立場でそれを判断しなければいけない.チャレンジャーの例で言えば,乗組員は当事者だが技術者ではない.ジャッジができるのは技術者である.技術者は危ないと気がつきつつ,放置してしまった.
学会は,倫理規定を掲げつつ,パブリックの立場に立ってこそ,学会の会員として値打ちがあるということを,広めていって欲しい.それが,技術者が技術者として認知を受けていく生命線なのである.
 その実現化の組織づくりとして,技術推進機構がある.発想の原点には,中立的な評価機関であることと,会員の浄財から成り立つしかない学会にとって,何か財政的にプラスになる方策はないかという考えがあった.学会で技術を中立に評価できる機関を持ち,その評価に対して対価を求めてもいいと思ったのである.

土木のグランドデザインを描く

 これからの学会のことは,これからの人が考えていけばいいと思うが,組織や人というものは,うっかりすると制度疲労を起こしていく.だからこそ,常に日常からの脱皮,非日常的なものが必要なのである.そこには感動がある.資格を得るとか,グローバルに活動できるとか,日常化しているものから脱皮を図るということを,理事会や委員会ももっと考えて欲しいと思う.
 地域や,地域の人たちと一緒になって活動をする.子供たちに教える.地域へシルバーボランティアを派遣することでもいい.私くらいの年齢になると,何か世の中のために役に立つことをしているということが,生きがいになる.そういう人たちに,地域的な活動をしてもらえればと思う.
 また,ぜひ実行して欲しいと思っているのは,適正な防災レベルに関する社会的な合意の形成である.これは学会でしかできないことである.防災レベルをどんどん厳しくしていく.その代わり,税金を10倍にしますといっても,誰も納得しないだろう.このあたりなら,という適正な防災レベルがある.たとえば,交通事故で1年に何人もの人が亡くなっている.それは利便性ということとの引き換えで,社会がある程度認定しているとするなら,そうした説得性を持った基準をつくって欲しい.
 そして,土木の長期構想,グランドデザインというものを,シビルの中で描いて,中期的に40〜50年くらいでどのあたりを目指すか,10年くらいでどのあたりを目指すか.議論してもらいたい.この頃,多くの人が勘違いしていることに,「技術=スピード」ということがある.しかし,土木だけは違う.三世代,四世代先の人たちと,投資も責任も恩恵も共有しなければならない.それが技術の中で土木の大きな特徴なのである.だから,少なくとも目標を置くときには,100年先ということも当然考えなければならない.ハイテクのように1日遅れたらダメだというような世界ではないのである.
 最後に,今改めて当時を振り返ってみると,次期会長に推薦すると電話連絡を受けた時が,一番の驚きであったことを思い出す.土木学会の会長が地方から出るというのは,なかったからだ.それだけに強く責任を感じた.任期は1年間しかないので,会長になるまでの1年間準備をし,名古屋と東京にチームをつくった.それで第1回目の理事会から打って出た.また,理事会の議長なども全部自分で行った.それまでは,説明は事務局のほうからなされており,次年度の事業計画もできていた.その時,「誰がこんなものを作ったのか.事業計画というのはその時々の会長のポリシーを反映してつくるものである.予算的な裏づけもないものを作文して何の意味がある」と言って,突き返したということも思い出である.
 まだまだ学会の改革は必要である.組織も,やってきたことも,常に進化性で考えてくことが大事である.そこから新しいことが生まれてくる.誤りを正すことをはばからず,変更していく.そんな進化性を忘れず,取り組んで欲しいと思う.

interviewer:池田 駿介(東京工業大学教授)
date:2004.10.6,place:国立大学協会専務理事室

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