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第I編 激動の10年を振り返る

第1章 歴代会長が語るこの10年

1.80周年記念事業,そして阪神・淡路大震災発生。調査団団長として現地入りし,報告会開催へ。

中村 英夫 第82代会長
中村 英夫(なかむら ひでお)  Hideo NAKAMURA 第82代会長
(1935〜) 工博 1958年東京大学工学部土木卒,帝都高速度交通営団(現東京地下鉄)に入団,61年東大助手,66年助教授,67-69年シュツットガルト大学局員教授,70年東京工大助教授,74-76年経済企画庁経済研究所システム分析室長(兼務),77年東大教授[工学部土木工学科],96年東大名教授,96-04年運輸政策研究所長,97-04年武蔵工大教授,04年武蔵工大学長。土木学会各種委員会委員長,副会長,会長を歴任。84年論文賞ほかフォンシーボルト賞(ドイツ),リヨン(リュミエール)大学名誉博士(フランス),交通文化賞(運輸大臣),シュツットガルト大学名誉博士(ドイツ),世界交通学会Dupuis賞など。国土審議会,交通政策審議会,社会資本審議会各会長代理など政府委員を多数歴任。

NHK「テクノパワー」を放映

 私が会長に就任したのは1994年。現役の東大教授であり,会長退任後も教授職にあった。
 会長就任当時,土木の世界では,青函トンネル,本四架橋,関西国際空港と,大型の土木事業が完成していった時期で,アクアラインや明石架橋も完成に近づいていた。どれをとってもその当時,世界で有数の大事業だった。しかし,この先,そのような大型事業が続いていくとは思えなかった。百年近くやってきたわが国の近代土木事業がピークにある時期と思っていた。
 就任時はちょうど土木学会80周年にあたり,大々的に80周年記念事業を行った。何故そのように大掛かりに記念事業を行うのかという意見があった。そのときにも,これまでの土木はピークを越え,次への曲がり角を迎えているので,これからは今までとは違った方向を目指すべきであり,そのための節目となるのだという言い方をした。
 土木事業に対する風当たりが強くなり,多くの人の理解や努力を得る必要も感じていた。そこで,会長就任前の副会長の時代に,NHKと交渉し,「テクノパワー」という,今でいう「プロジェクトX」のようなシリーズのドキュメントを制作してもらうことになった。アナウンサーの松平定知さんが進行役で,ヨーロッパの調査にいってもらったり,明石架橋のてっぺんにも登ってもらったりした。番組では,NHKとしても初めてCGを本格的に採用し,一般の人にも理解してもらえて,好評だった。
 80周年記念事業では,何年も前から準備委員会の中心として関わり,進めてきた。シンポジウムは,東京で行わず,あえて横浜でやった。ちょうどMM21の第1段階の事業ができようとしていた時で,横浜市長が土木学会の会員ということもあった。当時,名古屋と神戸の市長も会員だったので,横浜へ来てもらって座談会を開催した。また,この期に創設した国際貢献賞・技術功労賞の顕彰、祝賀パーティでは会員自前の室内楽団アンサンブル・シヴィルによる音楽演奏が行われ,海外の学会などからも多くの人が参加し,事業としては大成功だった。
 講演では,私の「土木学会と土木事業の80年と今後にむけて」という基調講演のほか,司馬遼太郎さんに「日本の土木」ということで,特別講演をお願いした。その最後に言われた「土木の人たちは世間を敵に回すようなことをしては不幸だ」といった意味の言葉は,今でも記憶に残っている。
 80周年事業としていくつかの本も作った。間に合ったのもあれば,間に合わなかったものもある。「日本土木史」「土木用語大辞典」「ヨーロッパのインフラストラクチャー」などはその時の成果である。

学会用地を国鉄清算事業団から購入

 土木図書館が老朽化していたので,建て替えて,土木のアーカイブスを作る計画を80周年記念事業の一つとして進めていた。そのために募金活動を行い,多くの資金を集めることができた。川崎市が川崎の浮島にある土地を無償で使わせてくれるという話になり,そこに建てようと計画していた。そのうちに,阪神淡路大震災が起こり,それどころではなくなった。集めた資金は後に残せるようにし,それが今の会館建設につながった。
 学会のある土地はそれまでは借地であったが,土地を管理する国鉄清算事業団から買取を要求されていた。一部ではまだ買うことはないという意見もあったが,土地の価格も下がっていたので購入することに決めた。500坪で10億円であった。資金は銀行から借りることにし,その返済のため,5年間会費の値上げを行った。そのとき,「会員の皆様へ」ということで,事情を説明するお願いの記事を寄せた。なかには会員が減るのではないかという危惧があり,多くの不満が出るのではないかと思ったが,それも震災で消えてしまった。あのときが買う良いタイミングであったと思っている。

地域格差を全国大会のテーマに

 会長就任時の全国大会は,北海道で行われた。その時「地域格差とその是正への方策」という題で,特別講演を行った。日本は随分豊かになったが,まだ存在する地域格差が,それは所得水準だけの話ではなく,文化的な格差や福祉の面での格差など,いろいろな面で残っているといえる。これを是正しないと,いつまでたっても国全体が不安定のままである。その頃,北海道は人口減少の方向にあり,札幌への一極集中が一段と進んでいた。それであのようなテーマを選んだ。それは,北海道にとって必要な話だろうと思ったし,北海道の人たちにメッセージをしたいという気持ちもあった。これまでの私の研究を踏まえ,スライドなどを交えて,講演を行い,好評であったと聞いている。

震災翌日に調査団を派遣

 80周年の記念事業での基調講演では,80年間の土木学会や土木事業の総括をして,将来への方向を考えて講演をしようと思っていた。私としては随分準備を重ね,歴代の会長の書かれた学会誌にすべて目を通した。そうしたこともあり,「土木学会と土木事業の80年と今後にむけて」を今自分で読み直しても,一つのまとめをしたと思っている。学会誌では,関東大震災のときにどのような対応を行ったかとか,戦後の復興にどのように対応をどうしたかなど,その時々の人が語っている。それが私の頭の中にあった。それもあって,阪神・淡路大震災が起こる1週間くらい前に,土木学会の企画委員長などに参集してもらい,大きな災害が起こったときには学会はもっと迅速に動かないといけない,という話をしていた。そんな時期に,あの大震災が起こったのである。
 阪神・淡路大震災は,1995年1月17日未明に起こった。実はプライベートな話になるが,その前の日に研究室の卒業生の結婚披露宴で大阪に行っていた。泊まることも考えたが,次の日の仕事もあってその夜遅く東京に戻った。朝早く,ラジオから震災のニュースを聞いた。その時はまだ大したニュースも入っていなかった。しかし,事前に話をしていたので,しっかり調べなければいけないということで,朝早く,土木学会の事務局職員の自宅に電話を入れた。大変なことになっている可能性があるので調査団を出したいので,準備してくれという指示を出した。すぐに準備を整えてくれ,調査に行く専門家の先生もピックアップしてくれた。それで先生方に調査に行ってくれるように無理を頼んだりした。
 現地は想像以上に惨状を極めていた。先生方には,今まで腑分けされたことがないものが腑分けされたのだから,土木の「解体新書」を作る気持ちで,徹底的に調べ,記録に残してくれと頼んだ。
 第1次の調査から,これは地震工学や耐震設計の分野だけで調査すれば良い話ではない。広く社会的な問題にもかかわるものであるので,もっと広い分野の人たちを集めて行こうということで,第2次の派遣では,私が団長を務め,多くのメンバーを集めて行くことになった。第1次の調査団が現地入りしたのは,震災発生の翌日18日。第2次ではメンバーを決め,準備をして現地に向かったのが22日である。

東京で調査報告会を開催

 あの時,地震の被害にあった人というのは,不満の捌け口の持って行き場もなく,ひとつの矛先として耐震基準を決めることに関わってきた土木学会をはじめとした学会に向けられていた。そういったこともあり,一般社会に対して説明が必要だと考え,調査報告会を開くことにした。調査を進める以前に前もって場所を予約しておいた。それが東京・千代田区の都市センターだった。その時は,人数は500人くらいあればいいだろうと想定していた。ところが,開いてみたら,道に行列ができ,人が入りきれないという騒ぎになった。それが2月8日である。
 その頃,私は報告だけではなく,調査結果を記録として残しておき,そこから新しい耐震の方法を考えていかなければならないと思った。それで調査報告書づくりを始めた。そこでは,土木と建築がバラバラにやっていたのではだめなので,一緒にやろうということで,声をかけた。たまたま,その前年まで日本建築学会の会長と,都市計画学会の会長と私の3人が大学での知己であったこともあり,親しかったので,以前から2〜3カ月に1回昼食をともにして,3つの学会の共同した活動についていろいろな話をしていた。そんなこともあって,この地震の調査報告書は一緒にやろうということになり,それが合同での「阪神・淡路大震災調査報告」の発行につながった。その他の学会も加わり,大勢の先生に協力してもらったが,皆さん短い時間で一生懸命やってくれた。1923年の関東大震災では,広井 勇先生が委員長として調査を行い,1927年までに全3巻の報告書を刊行し,それがその後の耐震設計を考える上での参考になった。私は,技術的にはもちろんだが,内容の豊富さからいっても,それを超えるものができたのではないかと自負している。

現地の惨状に深い悲しみを覚える

 実際に緊急調査団で現地に入ったら,あまりにひどい状況で驚いた。自分たちの先輩や仲間がやったものがこのようになっているということで,ひどく悲しかったのを覚えている。この地震で阪神・淡路地区が復興できたとしても,またいずれ日本のどこかで起きる。そのときにこんなことになっては困る。そのためにどうすればいいのかということを,調査で街を歩きながら,つねに考えていた。
 震災では,天皇・皇后両陛下も神戸に行かれたが,その後,説明をするために皇居に呼ばれた。そこでは,自分の言葉だけではこの惨状をうまく伝えられないので,スライドを投影することをやらせて欲しいとお願いした。前例がなく機械もないということだったので,プロジェクターを皇居に持ち込み,自分でセットし,両陛下の前で説明をした。そのため多くのスライド写真を調査団に加わった皆さんに提供していただいた。それから,NHKでも震災の話をし,国会の参考人としてもスライドを用いて説明を行った。自分の表現力が乏しいということもあるが,土木の仕事は目で見たほうがわかりやすいので,これに限らず可能な限りスライドを使っている。
 震災を経験し,首都移転に関しても私の意見は変わった。それまではどちらかというとネガティブに考えていた。しかし,地震で日本の政治,経済,文化すべての機能が同時に破壊されたら,日本にとっては計り知れないダメージとなるだけでなく,世界にも大きな影響を与えることになる。せめて,経済と政治の機能は分けておくべきだろうと思うようになった。神戸の市役所など新しい建物は地震の被害を受けなかったことを見て,現代の技術を充分に取り入れ,地区を計画的に整備し,新しい都市をつくれば,ほとんど大きな被害をうけないものをつくることができるということを,逆に神戸の地震で確信した。
 土木の仕事で一番重要なテーマは,現代のわが国では災害対策だと思っている。特に地震対策が緊急の課題である。

土木の課題はまだまだ多い

 土木の仕事は若者にとっても魅力的なはずだ。この仕事に携わることによって得られる生きがいや面白さを,もっと若い人たちに伝えていくことが大切だ。研究でもまだまだやらなければならないテーマは沢山ある。
 ここ2年間,世界的研究教育拠点の形成のための重点的支援「21世紀COEプログラム(文部科学省・研究拠点形成補助金)」の審査に関わってきた。そのような際,多くの分野の研究を横並びで見たとき,ゲノムやナノテクなどは極めて先端的分野であり,一方われわれのやっているところは,目的ややっていることがわかりやすく,それだけに古ぼけた研究課題と言われがちである。しかし,こうした研究課題はいわゆるハイテク以上に解決は難しく,頭脳もハイテク以上に必要になる。
 過去の工学技術においては,先端的な技術と社会的な技術が一緒であった。たとえば,長いトンネルを正確に測量し,そして工事を完成させる技術は,先端的な技術であり,社会的な技術であった。今では長いトンネルを掘るのも,長い橋を架けるのも不思議ではない技術になっていて社会的には有用な技術であるが,先端的な技術ではなくなっている。しかし,目的や方法が判りやすい社会的技術は社会の複雑化,高度化とともに一層解決がむずかしい多くの課題をかかえるようになっている。そこには新たでむずかしい研究,しかし,ニーズも多くあり,やらなければいけないことは多い。そういったところで,これからの若い人にはぜひ頑張って欲しいと思う。

interviewer:清水 英範(東京大学大学院教授)+ 岡本 直久(略史編集委員会幹事)
date:2004.9.29,place:武蔵工業大学学長室

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