受賞作品/関係者リスト


 総 評
saito

「改革後」はじめての選考会に臨んで 

齋藤潮(東京工業大学 教授)
景観・デザイン委員会 デザイン賞選考小委員会委員長
 土木学会デザイン賞は2001年発足から13年目を迎えました。これまでもこの授賞制度の内外で折々に課題が話し合われ、改良が試みられてきましたが、今年度のデザイン賞に向けての「改革」の特徴は、募集要項に評価の視点が5つ記載(別掲)されたところにあります。作品と応募書類とは、少なくともそれの視点から眺められるようになったのです。応募者はアピールの一応の手がかりを得たわけで、選考委員との「対決」環境がこれまでよりはフェアになったと言えましょう。法政大学の福井恒明さんを中心に組織された「デザイン賞検討ワーキング」の成果です。
 しかしながら、評価の視点を明記することに、わたくし個人としては懸念がありました。端的に言えば、応募書類がこれらのすべての視点にこじつけて編集されてしまうのではないか、ということです。作品と各視点との対応関係は、書こうと思えばいかようにでも書ける。そんな書類は、優等生の作文のようにソツはないけれどもジツもない。だからこそ、応募者をそのように誘導してしまうような事態は避けたい。作品を世に出すにあたって実際に尽力したことを、いずれか適合する視点に照らして吟味するのがねらいです。「これら全ての視点を満たすことが受賞の必要条件では」ないという但し書きはこの意味において記載されました。
 ある作品が優れているかどうか。それは説明をまたずに判断できることもあります。一瞥しただけでその作品のオーラに見る者が取込まれてしまう。見る者の目が肥えている場合、これは作品と見る者との幸福な出逢いといっていい。いっぽう、応募書類の記載内容をよく見て作品を実見すると、実物は書類が強調しているほどには良くないとか、反対に、応募書類で想像した以上に実物は良いという発見もあります。作品の実見という審査方法の意義はまさにここにあって、それゆえに、わたしたちはいまのところこれを省略することはできないのです。
 ところが、相応の説明がなければ見逃してしまうことも確かにある。とくに、社会制度やしくみとの兼ね合いなどは、作品の実見だけでは了解しづらい。計画・設計の実務経験が豊富で、作品から努力のあとを掬い出せる人もいると思いますが、それでも詳細はわからないし、専門が異なれば勘も働きにくくなります。また、竣工前後の現場の景観の変化は、作品を評価する上で大きな論点になりますが、竣工前の現場を知る機会は限られる。施工前の状況は、ふつうは応募者からの情報に依るほかありません。
 評価の視点のみならず、提出すべき情報が整理され明記されたことで、応募書類の意義は今まで以上に重くなったと思います。デザイン系の授賞制度に土木技術者は応募慣れしていない。だから、応募書類の書式の自由度が高い -- たとえば応募書類のデザインすら腕の見せどころだとなると、それ自体が応募のハードルになる。土木技術者は、デザイン分野で百戦錬磨の人々に比べて不利だという議論がありました。これについては、今年度から書式を規格化することで対応しています。 
 今年度のデザイン賞は「改革」の成果が試されるという性格を帯び、同席した「検討ワーキング」の厳しい目線に曝されながら選考が進められました。応募件数は先行応募を含めて15件。7月15日の一次選考会にて14件が実見対象に選抜され、10月14日の二次選考会にて8件が授賞対象として選定されました。最優秀賞2、優秀賞4、奨励賞2がその内訳です。書類審査段階での評価に対し実見を経て逆転的に高評価となったのは警固公園。現場が山間部に細かく分散し、かつ訪問時期によっては猛烈な雑草が実見を危うくしたにもかかわらず、応募書類の読み込みによってその意義が評価されるに至ったのが通潤用水でした。
 このたび受賞が決定した8作品の応募者・関係者各位のご努力を讃えますとともに、実見の実施をはじめとする制度運営にご支援賜った協賛団体各位に篤く御礼を申し上げます。  
kabaki

選考会で思うこと 

椛木洋子(株式会社エイト日本技術開発 構造事業部 橋梁分野統括)
今年は選考委員最終年である。これまでの2年も、複数個所の現地視察や、長時間に及ぶ選考会など時間拘束と身体的負担があったが、今年はそれが特に大きいと感じた。応募書類の書式変更により作品の情報量が増えたこと、それにより、確認すべき自分なりの視察のポイントが増え、結果的に、炎天下・長時間・長距離の移動を自らに課すこととなったためと思われる。
「土木」は、周囲との関係があってこそのデザインであり、現地に行かなければわからない。現地でのスケール感、様々な視点による背景の変化、天候あるいは時間帯による光の変化によっても見え方が異なるので、その確認のために現地に何度も足を運ぶ。その場にとどまり、当時の担当者が考えたであろう様々なデザイン意図を想像する。その解が、現地にうまく適っていることを発見し、納得する。
今年の受賞作品は、駅およびその周辺、公園、街並み、河川、水路、橋、ダムと種類も規模も多様である。特に供用後20年以上経過した作品が複数あり、土木デザインの長寿命を再認識させてくれたことはうれしい。これを機に、やや古い作品であってもデザイン賞に応募しようと考える人が出てくれることを期待したい。
ところで、最近、民間事業の受賞作品が増加する傾向にあるように思う。完成後年月が経過してからでは公共事業の場合、応募しにくいとの理由もあるかもしれないが、事業費の制約があって、景観に配慮する余裕がないことが理由でデザイン賞に値する作品が減少しているのであれば、悲しいことである。デザインが良ければ、「民間事業として十分に採算ベースにのる」ことを示すこれらの受賞が、極端に経済性重視の公共事業に多少の刺激を与える機会になればと願う。  
suda

自然に美しくなること 

須田武憲(株式会社GK設計 代表取締役)
 土木学会デザイン賞の選考委員のメンバーとして2年目となり、賞としての評価の視点に加えて、改めて自分なりの評価基準を確認しながら可能な限り現地を見て選考を行なった。選考のポイントを整理すると、
・環境プロダクトと言われるモノや装置が置かれた状況を通して、機能性と快適性の向上が図られているか
・地域の持続可能性を担うような新たな価値を提供しているか
・時間軸の中で形成される地域の美の創出に寄与しているか
・配置については視点場などに対する配慮がなされているか
・まちづくりの仕組みと維持管理の連携があるか
・モノがつくり出す場や人や生態との関係性によって、作品が自然に美しくなっているか
の6つに集約できる。
 最後の「自然に美しくなる」というキーワードは私のデザイン活動のテーマでもある。作られたモノや空間は、誰も顧みなければ時間とともに朽ち果てていく。人々が必要だと思ったり、愛着をもって関わってもらえるような存在になれば、長きにわたって慈しまれ磨かれて、その存在が美しくなっていくだろう。環境デザインの本質はそうした力学を生み出せるかどうかにかかっていると言えよう。
本年度は竣工後20年以上経て応募された作品がいくつか見られたが、いずれの作品も「時間軸の中で形成される地域の美の創出」に寄与していると評価することができた。長い時間をかけて自然に美しくなっている作品が本賞の受賞対象として、今後ひとつの大きな流れとなることを期待したい。  
takami

 

 

3年を通じて 

高見公雄(法政大学デザイン工学部 教授/(株)日本都市総合研究所 代表)
土木学会デザイン賞審査委員の任期は3年。今年は3年目であった。この審査は結構時間をかけ、本音で議論をする。言いにくいことも割と言える雰囲気がある。意見が割れる場合もある。この賞は土木施設などのデザイン水準を上げ、優良な社会資本ストックを蓄積していくために行われているのだと理解している。そんな観点からこの3年を振り返る。年によってエントリー作品がけっこう偏るのは不思議であるがいたしかたない。総じて水辺に絡むものが多いのだが、今年は特に多い。昨年はその他民間の建築物と絡むものが目立ち、一昨年は橋、トンネルなど施設単体が多かった。私は都市デザインの立場から参加しており、土木施設等と周辺建物または周辺自然環境等との関係性の観点を重視しているように思う。そういう点からは、未だ施設単体のデザインには相応の労力をかけつつも、周辺への働きかけ、周辺との関係への踏み込みが十分でないものも見受けられる。都市や自然環境の中に加えられる人工物であるのだから、周囲との対話が重要であると思う。まちなみはこの賞のテリトリーか常に議論となるが、都市空間のように当該の施設がより多くの意志を持つ多数のものに囲まれ存在している場合、デザインとしての取組みをどういった範囲まで頑張るか、これは今後とも考えて行かねばならない課題であると思う。また、こうしかならならないのでしようがない、という部分が未だ残っている残念な作品もある。これらについて途なかば、というのがこの3年の印象である。狭義のデザインに注ぐ肩の力を少し抜いて、全体を俯瞰することで、より総合的なデザインの観点が広まっていくことに期待したい。
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人と風景と土木デザイン  

武田 光史(日本工業大学建築学科 教授 )

 今年から、土木学会デザイン賞の審査委員を務めさせていただくことになった。建築の設計に携わる者に、少し異なった視点からの意見を求められたのだろう。東京から地方まで8カ所を見学し、貴重な経験をさせていただいた。
 幾つかの建築賞の審査委員の経験はあったが、土木の持つデザイン以前の公共性と社会的責任の大きさに改めて気づかされた。特に橋やダムなどは置かれている環境のために、風景の中で存在の独立性が極めて高く、それ一つで景観の決定要因となってしまうほどに影響力が強い。建築では重要な内部空間もほとんど無い。技術的あるいは社会的な背景を一旦捨象すれば、造られてしまった外観(状態)と環境のシンプルな対峙と言うほか無い。そこで、応募資料の読み込みや視覚的な確認とともに、階段の昇降の易さや居心地など身体的な感覚と、そこにいる人たちの立ち振る舞いも評価の手がかりとした。
 講評した他では『東京都野川における自然再生事業』に触れておきたい。8月の昼下がり、団体で運動する人たちや父娘のキャッチボールを見ながら進んで行くと、川の中で何かを探している幼い兄妹や母と子、雑草の生い茂る水たまりで昆虫採集の父と子、等々、この場所にいることを楽しんでいる人々が大勢いた。舗装のデザインなどには多少の過剰感もあったが、植物や昆虫や水性動植物の多様性の継続と人的メインテナンスの程よいコントロールが、ここのデザインの本質であり、地域の人々に愛されている由縁なのだろう。建築の場合、デザイン的に必ずしも秀でている訳では無いが、皆に愛されているものが多々ある。このことは、土木でもデザインの存在意義の一つではないか、と考える。
nishimura

未来への可能性 

戸田 知佐(オンサイト計画設計事務所 パートナー/取締役 )
 選考の過程で、いつも大事にしてきたものは、そのプロジェクトがどれだけデザインの新しい可能性を見いだしているかと言うこと。橋、ダム、川、都市広場、駅、ニュータウン、これだけ幅広い空間を並べて評価する場合、その個別のデザインの質の評価も大事であるが、まちや人の生活に対してどんな未来への可能性を示唆しているのかを読み取るのが重要な評価ポイントになる。
プロジェクトの評価はまちとの関係において大きく変わる。できた空間や発想はとても良いのだけど、この場所にとってこの提案が最適だったのか、他の解決方法はなかったのか、過剰なデザインではなかったのか、そんなことをずっと考えてきた。
特にランドスケープアーキテクトという立場からいつも興味をもって見てきたのは、緑地やオープンスペースが、まちの大きなコンテクストとの関係でどれだけ評価が変わるかと言うこと。あたりまえの事ではあるのだが、毎年選考のたびに痛感する。
日本という国は気候にも恵まれ雨量も多いので、基本的に放っておけばある程度の豊かな緑地が生まれる。空き地も数年もたてば、ただの原っぱではなく、実生から育った樹木が数メートルまで生長する国である。人工的な潅水なしには緑の育たない国とは緑に対して土地の持っているポテンシャルが違うのだ。その環境の中で、自然環境や緑地をどう評価するか。庭としての緑ではなく、デザインされる自然環境としての緑のありかた、管理手法も含めた緑の「量」ではなく「質」を評価するヴォキャブラリーを我々はもう少し構築しなくてはいけない。
オープンスペースも同じである。その質の評価基準として、まちとの関係を評価するヴォキャブラリーをもっと充実させることにより、人が本当に利用するオープンスペースの未来への可能性もさらに広がると考える。
 
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総評  

吉村 伸一((株)吉村伸一流域計画室 代表取締役)
 3年ぶりにまた選考委員をさせていただくことになった。今回は川や水路に関係する作品を中心に7カ所現場を訪れた。川のデザイン評価というのは他の分野と少し違うかもしれない。私がいいなと思うのは地形処理や空間の構造であり、川の働きそのもの、つまり川が元気であるかということである。だから、一見してどうということはない。普通の川。しかも洪水のたびに姿形が変わったりする。デザインという視点でその現場を見るとすると、その川にどのように向き合って手を入れたのか、あるいは手を入れるのを控えたのかということを読み取る作業だろうか。これまでの河川改修の多くは周辺とのつながりを含めて川の姿を大きく変えてしまった。川が暴れるのを抑えようとして適度に遊ぶ自由まで奪ってしまった。その結果、川はつまらない水路になり、生き物のにぎわいもなくなった。
 今回の応募作品との関係では、通潤用水の「大きな改変を避け必要最小限にとどめる」という姿勢はとても重要だ。土と石を基本として護岸は空石積とする。これは「大きな技術から小さな技術へ」という意味がある。土や石は壊れればまた同じ材料を使って直せる。煩わしい維持管理から解放はされないが、ヒューマンスケールの技術という点では持続性がある。野川の自然再生は、洪水調節のための池にかつて水田で生息していた生き物の環境を少しとりもどす試みであり、失われた谷戸の風景を再現する試みである。遠目には見えないけれども水や草むらの中に生き物がいる。そういう谷戸の風景。いい取り組みだと思う。そこに住む住民・市民が地域の環境と向き合って暮らしていく社会の再構築という点でこの二つの作品は印象に残った。