本州四国連絡橋ってどんな橋?

瀬戸内海をまたぐ大きな橋

 瀬戸内海に架ける長大橋、本州四国連絡橋は、本州と四国の間を3つのルートで結びます。1988年4月に「児島・坂出」ルート(瀬戸大橋)が開通し、本州と四国が初めて陸続きになりました。来年春には「神戸・鳴門」ルートが、また再来年の春には「尾道・今治」ルートが開通し、今世紀中には3ルート全部が完成します。

 

 

明石ルートの選定の歴史

 瀬戸内海を渡る大橋を架けようとした構想は、明治までさかのぼります。明治22年に香川県会議員の大久保諶之丞(じんのじょう)の「塩飽(しあく)諸島ヲ橋台トシテ架橋連絡セシメバ・・・」の発言が最初といわれています。
 大正に入り、徳島県選出の中川虎之助代議士が「鳴門架橋に関する建議書」を帝国会議の予算委員会に提出しています。昭和12年は、アメリカでゴールデンゲート橋が完成した年ですが、その3年後の昭和15年に内務省技師の原口忠次郎から鳴門海峡架橋が提案されました。しかしこの計画は、戦争中にはかえりみられることなく戦後を迎えることになります。
 原口忠次郎が神戸市長になると、この架橋計画はさらに明石海峡へと進み、昭和30年頃から神戸市に担当部署が置かれて調査が始まりました。これが実質的な架橋計画への取り組みの第一歩です。神戸市の構想は、明石海峡をスパン(塔と塔の間)550m、1,500m、および550mの3連の吊橋で結ぶものでした。その後、この事業計画の推移は、神戸市から、国に引き継がれていくことになります。