JSCE
土木学会

企画委員会

土木学会平成12年度全国大会  特別講演会(テープ反訳)

※注:本講演会記録は、当日の録音テープを基に作成されたものであり、不明瞭な部分について誤りがあることがあります。

開会挨拶  全国大会実行委員長  田 崎 忠 行 

特別講演  「社会資本整備の課題と土木学会の役割」 土木学会会長  鈴 木 道 雄

特別講演  「公共」と「市民」〜「都市」について考える〜 早稲田大学教授  樋 口 陽 一

閉会挨拶  全国大会実行委員会講演部会長  岸 野 佑 次

開 会

○司会 (村井貞規) ただいまより、平成12年度土木学会全国大会特別講演会を開催いたします。私、本日の司会を務めさせていただきます全国大会実行委員会特別講演班の村井でございます。どうぞよろしくお願いいたします。 (拍手)

開会挨拶

全国大会実行委員長   田 崎 忠 行

○司会 それでは、初めに、平成12年度土木学会全国大会実行委員長田崎忠行より皆様にごあいさつ申し上げます。

○田崎 本日は、土木学会全国大会のために、全国からこのように大勢の方々に当地仙台までお越しをいただきまして、まことにありがとうございます。心より歓迎を申し上げたいと思います。

この2000年という20世紀最後の年に、土木学会の全国大会をこの仙台で開かせていただくということで、土木学会の東北支部といたしましても大変名誉なことだと思っております。

20世紀を終わるに当たりまして、20世紀が一つの面として科学技術の時代だというふうに言われております。いろいろな新たな発見があり、新しい技術が開発をされ、それによって飛躍的に人間生活も変わってきたというふうに思います。土木技術の面においてもしかりであろうと思います。

従来不可能でありました海峡に橋がかかり、山にトンネルが掘られ、あるいは水害が防がれると、こういうことによって、人間生活にも多大な貢献をしてきたというふうに自負をするわけであります。

しかしながら、この時期におきまして、土木というもの、あるいは建設事業というものに対して、例えば、もう既に建設事業は充足してきたのではないかと、ほぼ満ち足りてきたのではないかと、あるいは、建設事業の進め方が必ずしも効率的、適切に行われていないのではないか等々の多くの課題が提起をされております。

これらについて、私ども土木技術者は、的確にこたえていかなければいけないと思うわけであります。土木技術者は、土木の専門家としてこれらの課題にきちんとした答えを提示する必要がある、義務があると、このように思っております。

また、そういうことがきっちりとできることによって、土木技術というものがよりよく理解をされると、こういうことではないかと思っております。

技術者、あるいはものをつくる人が世の中から信頼をされないという時代は不幸な時代ではないかと思います。私ども土木技術者が世の中からきっちりと信頼を得るというための努力を、今後とも続けていく必要があると思っております。

土木学会の全国大会がこの東北地方で開かれるということでありますが、私どもは、これからの土木技術が全国画一的なものではなくて、地方の個性を生かした土木技術である必要があると思っております。いわゆる地域の個性の地域を生かした土木技術というものも大変重要な課題ではないかと思っておる次第であります。

このような背景のもとに、全国大会のテーマとして、「地域・人・技術── 時代をつくり、地域をはぐくむ土木技術」このようなテーマを設定をいたしました。

今申し上げましたような、「地域の個性を尊重した、安全で活力のある地域づくり」、これが我々の目指すものではないかと思っております。このようなテーマのもとに、いろいろな各種の行事を、21日から23日の3日間、仙台市内で実施をさせていただくということでございます。

これから、特別講演会、それから特別討論会を開くわけでありますけれども、特別講演会では、鈴木会長からのご講演並びに早稲田大学の樋口教授からのご講演をいただくことになっております。

また、特別討論会は全国大会として初めてのの試みでございますけれども、「2000年の仙台宣言」というような案についていろいろと議論をしていただき、宣言 (案) として取りまとめていただくというような手はずになっております。

このようなことで、盛りだくさんの企画が予定をされておりますけれども、冒頭申し上げました全国大会のテーマに沿って、活発な議論がされることを期待を申し上げる次第でございます。

終わりになりましたが、この全国大会が開かれるに当たりまして、会員の皆様方に大変ご支援をいただきました。また、関係各位に大変ご努力をいただきました。厚く御礼を申し上げ、重ねて仙台へのご来仙を歓迎を申し上げまして、冒頭に当たりましてのごあいさつとさせていただきます。ありがとうございました。 (拍手)

○司会 どうもありがとうございました。

これより特別講演に入りますが、ステージの準備がございますので、少しの間お待ちください。

特別講演 「社会資本整備の課題と土木学会の役割」

土木学会会長

鈴 木 道 雄

○司会 ただいまより、特別講演を開始させていただきます。

最初は、土木学会会長鈴木道雄様より、「社会資本整備の課題と土木学会の役割」と題してご講演をいただきます。

お手元の資料にもございますように、鈴木会長は昭和31年に東京大学工学部土木工学科をご卒業になり、同年4月に建設省に入省なさいました。その後、四国地方建設局長、道路局長、技官、建設事務次官を歴任された後、平成2年に日本道路公団副総裁となられ、翌平成3年に日本道路公団総裁に就任なさいました。そして、平成10年に財団法人道路環境研究所理事長となられ、現在に至っておられます。

それでは、鈴木会長、よろしくお願いいたします。 (拍手)

○鈴木 ただいまご紹介いただきました鈴木でございます。

このような立派な会で、皆様にお話しできる機会を与えていただき、大変光栄に存じております。

ただ、本日、この「社会資本整備の課題と土木学会の役割」という大きな課題になっておりますけれども、これを30分でまとめることは難しいので、対象を絞ってお話をさせていただきたいと思います。

私が言うまでもないことですが、我が国は大きな変動、変革期を迎えております。これからの少子・高齢化、高度情報化、グローバル化などに対して、我が国の社会・経済システムが的確に対応できる形に変わっていけるかどうかが大きな課題であります。もしこれに失敗すれば、21世紀の日本は衰亡に向かうおそれがあるのではないかと思われます。

このような状況は、私ども土木技術者や土木学会をめぐる環境についても同様であると言えます。現在、景気回復の有力な手段ということで、公共投資に力点が置かれていますが、一方では、我が国の社会資本整備はもう十分である。従来型の公共事業はやめて、ITを中心とした投資に切りかえるべきであるという議論も出ており、さらに、現行の社会資本整備のあり方も公共事業の執行方法についても厳しい批判があるのも事実であります。

 私は、こういった議論、批判に対して、事業者を初めとして関係者、その多くは我々土木技術者でありますが、的確に対応できるかどうかが、今後の社会資本整備を進めていく上で、まず解決すべき課題と考えており、本日はこの点に限ってお話をさせていただきたいと思います。

 したがって、ここでは、我が国の社会資本整備の水準はもう十分なレベルに達しているかをまず検証し、次に、社会資本整備に対する厳しい批判がなぜ生じてきたか、その理由について考え、これへの対応策の現状、そしてこれから土木技術者はこれらの課題にどのように対処していくべきか、そのための土木学会の役割は何かについてお話をしていきたいと思います。

 まず最初に、日本の社会整備水準の現状について触れてみたいと思います。

 敗戦後、我が国の社会資本整備は、戦火により荒廃した国土を復興することからスタートし、まず爆撃で破壊された都市の復興、続いて昭和22年のキャサリン台風などによる水害に対する治水事業が最大の課題でありました。その後、経済成長を支えるダム、道路などの産業基盤整備が主となり、1970年代以降は下水道、公園などの生活基盤に重点を移しつつ、着実に整備が進められてきました。

しかしながら、道路を例にとっても、50年代は未舗装区間が多く、国道においても砂塵もうもうということで、現在の人には想像もできない状況から、現在は砂利道を見つけることができないくらい舗装は進んではおりますが、経済成長とモータリゼーションに伴う自動車交通の増大に対処できず、特に都市部では交通渋滞とそれに伴う生活環境の悪化が大きな社会問題になっております。 (「表1をお願いします。」)

表1は、マクロ的に見た日本と欧米諸国の社会整備水準、社会資本の整備水準の比較ですが、依然として我が国の整備水準は欧米諸国に比べ立ち遅れている状況であります。特に、生活に密着した下水道の差が大きく、また、高速道路においても、フランスを除く他の諸国は無料道路でありまして、日本が全線有料であるというようなことを勘案しますと、今の差はさらに大きいと言えます。また空港の旅客貨物の利用量を見ても、日本がいかに過密であるかは明白であります。

以下、わかりいいために図でご説明したいと思います。

図1は、下水道の普及率でございます。

図2は、公園の整備状況でございます。人口1人当たりは、東京の23区の面積は欧米の3分の1から10分の1程度ということでございます。

これは高速道路の延長でございます。

図4は、世界の空港の指標を出していますが、例えばパリに比較して、滑走路1本当たりの旅客は我が国では2倍、貨物は3倍以上で、いかに過密かということを示しております。

図5は、治水の水準でございますが、例えばフランスのセーヌ川の整備率は、100年に1回の確率に対して、1988年に完成しておりますが、日本はそこに示すように96年で65%というようなことで、欧米諸国に比較して、我が国の整備水準がどうかということは、これらを見てもよくわかるのではないかと思います。

それから、次に、この社会資本整備に対するもう一つの批判に、「公共投資が地方偏重で、しかも事業効率の低いものが多い」と、「大都市にもっと投資すべきである」といった意見があります。

ただ、こういう批判は、例えば、東京には外郭環状道路すらまだないとか、あるいは北海道の高速道路は交通量が少なく、効果・効率が悪いとか、あるいは100億円もかけて港をつくったけれども、釣り堀にしかならないというような各論的な批評が多いわけですが、ここでは一応3大都市圏とその他の地方圏をマクロ的に比較してみたいと思います。

図6は、下水道の普及率、ごらんのように大都市圏の方が整備水準がかなり上でございます。

図7は、都市公園等の整備状況、これは地方の方がいいわけでございます。

図8は、幹線道路の整備率でございます。この整備率といいますのは、交通容量を超えている区間は未整備というような指標でございまして、これによりますと、大都市圏は混雑が激しいということで、地方よりも3大都市圏の方がこの整備状況は低くなっています。

申しおくれましたけれども、3大都市圏とは、東京圏、名古屋圏、関西圏で、東京は埼玉、千葉、東京、神奈川、名古屋圏は岐阜、愛知、三重、関西圏は京都、大阪、兵庫、奈良を言います。

それから、図10ですが、これは空港へのアクセスの水準でございます。これらはすべて3大都市圏の方がいいわけであります。

こういったことから見ますと、下水道の普及率については、大都市圏と地方圏とでは大きな差があり、そのほか高速道路の整備状況や空港、公園のアクセスを見ても、大都市圏の方が恵まれていて、マクロ的に見れば地方圏の方が整備水準が高いということは言えないと思います。

ただ、大都市圏においては、やはり通勤時の公共交通の混雑、あるいは環状道路などの整備のおくれによる道路の渋滞、あるいは騒音、大気汚染等環境の悪化もあり、この公共投資が地方圏に偏重しているために、大都市圏における必要な社会資本整備がおくれているのではないかというふうになってきたのではないかというふうに思います。

ただ、これは現在大都市圏にはかなり公共投資がなされていますが、建設コストが非常に高く、また、地域住民の事業に対する理解を得るのに大変時間を要し、したがって整備効果が目になかなか見えてこないということが原因ではないかと思います。

これは後の議題になりますけれども、やはり事業者はもっと、こういうことでおくれているのだということを公表していく必要があるのではないかと思います。

以上、マクロ的に日本の社会資本の整備水準を見ていただいたわけでございますが、欧米諸国に比して低く、大都市圏、地方圏ともに今後も整備を進めていく必要があることは言うまでもないことでございます。

ただ、この場合に、先ほど申し上げましたように、現在の批判、公共事業あるいは社会資本整備に対する批判の理由を明確にして、それに的確に対応していかなければなりません。

(「表2をお願いします。」)

表2ですが、まず社会資本整備に対する批判、どういうような理由から出てきているか。また、それに対して現在どのような対応策が行われているかを表に示してございます。

 おのおのが絡み合っておりますが、まず、第1番目は、社会資本整備の規模の大型化、技術の多様化に伴う自然や地域社会に与える影響の増大と対応のおくれというのが挙げられます。

例えば、道路を例にとってみますと、初めは舗装することによって、砂塵もうもうの状態が解消されることで、沿道の住民にとってはまさに環境改善ということで感謝されていたわけでございますが、交通量の増大、車両の大型化などによる騒音、振動と排気ガスによる大気汚染といった問題が生じ、このほか道路の構造物本体による日照阻害、景観問題もあり、さらに、大規模道路となりますと、地域が分断され、従来の地域社会が成り立たなくなると、そういった懸念から、道路構造そのものに対する変更が求められることも出てきたわけでございます。

こういった道路環境問題に対する道路管理者の対応は、私の不経験からいきましても、当初は後手に回ることが多く、これが問題解決を難しくしたことが多かったと思います。で、もちろんこれには新しい施策を行おうとしても、財政当局に認めてもらうのに時間がかかるということもありますが、やはり問題が出てから対応するというようなことじゃなくて、あらかじめ考慮する姿勢に我々はやはり欠けていたのではないかと言わざるを得ません。

具体的に言えば、1970年代から顕著になった中央道の烏山、現在あそこにシェルターがありますが、あるいは中国道の青葉台というようなことで、高速道路でも全国で公害紛争が起こったわけでございますが、こういったことが起こって、これを通じて、自動車騒音に対する防音助成、あるいは日照阻害に対する補償、それから道路構造で環境施設帯の設置というような諸施策がやっと具現化し、その後の環境対策はこれらの手段により順調に進めることができたと。

現在、こういったものを含めて環境アセスメントを実施の上、事業が進められるようになってきております。最初からこういう手順をきちっとしてやれば、こういうような紛争も発生は少なかったのではないかと思います。

また、ダム事業についても、同じように、そのダムの水源地の地域住民の方々の生活再建が大きな問題になったわけでございますが、これもその経験から、地域住民の生活再建を含めた水源地地域の対策が法定化、1973年にされておるわけですが、このように、手当てがおくれたというのが一つの原因でないかと思います。

それから、自然環境の保護・保全に関しては、やはり建設対象物の機能とか、やはり経済性重視というようなことが表に出て、特に戦後では自然を征服するというような西欧的な思想が強くなり、古来の東洋的な思想であります自然との共生というような配慮に欠けた面がかなりあり、これが公共事業に対する批判の一因となったことは事実であります。

現在は、表2にありますように、いろいろな対応がなされておりますが、この問題については今までの経緯もあり、事業の継続あるいは変更、中止が問題化している箇所が随所に見られることは皆さんご案内のとおりでございます。

それから、2番目は、国民や地域の人々に事業実施の必要性や整備効果などに対し、理解を得るための説明が十分なされていなかったということでございます。

敗戦直後の我が国の社会資本整備水準は極端に低く、この状況から国土を復興させ、欧米諸国に追いつくためには、基盤となる社会資本整備が必要であるということは、当時は国民的コンセンサスが得られていたと思います。事業者、土木技術者と言ってもいいと思いますが、土木技術者の方も自分の仕事は世のため、人のためになるということで、真面目にいいものをつくれば世の中の人は理解してくれる、また、専門的なことは我々に任せてほしいという自負もあって、事業の内容とか必要性とか効果などについて、国民や地域の方々に十分説明することは少なかったのではないか、それに欠けていたのではないかと思います。「男は黙って仕事をする」、それがロマンだというような時代だったわけです。

また、一方、受ける方も、影響を受ける方々も、「国益のためだから」と、それを甘受する面もあったと思います。しかしながら、経済成長が進み、生活に余裕ができ、人々の価値観が多様化し、1で述べたような社会資本整備の社会資本の規模が大型かつ多様化して、周辺に与える影響が大きくなるにつれ、事業説明の不十分さ、事業決定プロセスの不透明さなどについて批判が生じ、これが公共事業に対する批判、不信感をもたらすようになりました。マスコミはこれを「寄らしむべし、知らしむべからず」という官の体質によるというように評したわけでございます。この語は、御存じのとおり、論語の「民やこれに寄らしむべし、知らしむべからず」の引用で、国民には何も知らしてはならないと、信頼させて、黙ってついてこさせるべきだというように解釈されるわけですけれども、私ども土木技術者はそんな思い上がった考えは全く持っていなかったわけですけれども、そう取られても仕方がない一面があったことは否定できないと思います。

また、事業の採択や内容の決定経緯が不透明であるという批判も、公共事業に対して不信感や疑念を増大させております。

このように、国民や地域の人々から見て、知りたい情報が提供されていないという印象が、公共事業への不信感につながっているという認識のもとに、最近になりやっと情報を一方的に提供するのではなく、双方向のやりとりの中で、国民や地域の人々の意見を反映し、コミュニケーションを推進するPI(パブリックインボルブメント)への取り組みが始まっております。平成11年には「公共事業の説明責任行動指針」が策定され、実施に移されるようになっています。

また、投資効果の低い事業が恣意的に採択されている、事業の執行に時間がかかり過ぎ、必要度が減少したにもかかわらず、事業が惰性的に継続されているというような批判に対し、新規事業採択時に費用効果分析等の活用に評価を行い、結果を公表する新規採択事業評価と、事業採択後、一定期間経過した事業を対象に事業の必要性を見直す「事業の再評価に関する実施要領」が平成10年に策定されております。

 最近では、与党3党の合意で公共工事の抜本的見直しに関する合意ができており、既着工工事の中止も含めて見直しを行うということが行われているのは、皆様ご案内のとおりであります。

 ただ、こういうような効率性、経済性のみで行政評価を行うことにはやはり限度があり、評価の内容についても、今後多角的な研究が必要であると思います。いずれにしても、これらの施策の実施は緒についたばかりであり、今後内容の充実を図っていかなければならないと思います。

 それから、3番目が、工事の入札・契約の不透明さに対する疑念と、それに関する不祥事の発生であります。

 我が国の公共事業の発注は、原則として指名競争方式によってきましたが、建設市場の国際化の進展もあり、また、平成5年に入り、複数の地方公共団体において公共事業をめぐる不祥事が続発し、公共事業の執行、さらには公共事業そのものに対する国民の信頼が著しく損なわれるに至りました。

 そこで、平成5年12月に中央建設業審議会において、「公共工事に関する入札・契約制度の改革についての建議」がなされ、我が国の公共工事の入札・契約制度は90年ぶりの大改革が行われました。内容の主な点は、大規模工事への一般競争方式の本格導入、指名競争方式についても透明性、客観性の確保のため、指名基準の公表、建設業者の技術力、受注意欲を反映した入札方式、これには公募型指名競争方式あるいは公示希望型指名競争方式がありますが、こういったものの採用、あるいは談合を助長するおそれのある工事完成保証人制度の廃止、あるいは入札監視委員会の設置などが行われております。さらに、平成9年度から入札時VEや契約後VE、10年度からは総合評価方式などの施行が開始されました。

以上のような入札・契約の透明性の確保のための多くの方式が導入され、実施に移されていますけれども、いずれも緒についたところで、地方公共団体の発注工事を含めると、依然として指名競争入札が主体であり、発注に対する批判や疑念が一掃されたとは言えません。最近では、こういったことに対して、「公共工事入札適正化法」と、あるいは政治家の介入に対して「あっせん利得罪処罰法」というようなものが検討されているところであります。

しかしながら、こういったことをやっておりますが、また一方では、価格競争がこれによって激化して、果たしてよい品質が確保されていないのではないかと、確保されなくなっているのではないかという懸念が生じてきております。したがって、今後技術力を加味した施工業者選定法の検討と、それに伴う制度の改善が当然望まれてくるわけでございます。

こういった状況に対して、土木技術者のあり方、あるいは土木学会がどういう役割を果たしたらいいかということに対して次に触れたいと思います。

以上、申し上げましたように、我が国の社会資本整備の水準は決して十分とは言えず、これからも整備を続ける必要があります。

しかしながら、これからの社会資本整備は、戦後国土復興から始まった従来の社会資本整備とその内容が変わりつつあることを、我々土木技術者は明確に認識すべきと思います。高度情報化社会や高齢化時代に適合した新しい社会資本整備が要求されており、さらに、これまでの社会資本のストックの更新、維持管理をこれからの財政が厳しくなる中で、いかにコストを縮減し、かつ効率的運用を図っていくかが大きな課題であります。

「創・業としていずれが難き」という言葉があります。これは国を興すことは、と、これを守っていくこと、どちらが大事かということでありますが、国を興すよりも、これをきちっと守っていく方が難しいという言葉でございますけれども、これからは建設一辺倒だけではいけない時代になってきていると。今申し上げました、これからの社会の変化に対応するような社会資本整備を、厳しい財政制約の中で進めていくということが、我々の責務であるということを肝に銘ずるべきではないかと思います。

それから、次に重要なことは、当然でございますが、今まで述べてきました社会資本整備に対する批判、疑念を払拭して、国民の信頼を取り戻すことであります。これは必ずしも土木技術者のみの努力ではできないことかもしれませんが、この事業の計画、決定、執行、管理のすべての段階で土木技術者が関与していることを考慮すれば、まず我々が先頭に立って努力すべきであると思います。

そのためには、当然ですが、上述した対応策を確実に実行し、必要あれば改善を進めると同時に、行った施策のアフターケアを行うことが必要であります。いろいろ対策をしているわけでございますが、みずから行った環境対策が、当初計画どおりの効果を上げているか、ダム建設に際して行った水源地対策が地域の方々の生活に真に役立っているか、といったような対策の効果を評価し、必要な措置をとっていくことが必要でございます。

それから、次に、地域との対応におけるPIの実施も大いに進めていくべきでありますが、これに関して一言言わせていただきますと、事業についての説明を事業実施前、事業中を問わず的確に行うことは当然ですが、やはりいかに精緻な説明をしても、理論的に説明をしても、最後に地域の方々が理解を示し、納得するのは、やはり説明者に対する信頼感がなければ、そういった納得はしてもらえないのではないかということです。したがって、本人の技術力はもちろん大事ですが、これにも増して大事なことは、その人の人間性といいますか、その人の人間そのもののあり方にあると思います。

 先ほど、「寄らしむべし、知らしむべからず」という言葉を引用しましたが、この言葉の解釈にはもう一つあって、この「べし」は可能の「べし」であると。したがって、原文の意味は、国民、民衆からはその政治に対する信頼をかち得ることはできるが、1人1人に政治の内容を知ってもらうことは難しいと、こういう意味だそうですが、私には何かこの方がしっくり、我々にはしっくりくるのではないかと。いろいろ理論的に説明すること、それによって納得してもらうということだけでは無理ではないかと。やはり信頼される土木技術者にならねばならないというふうに思います。

 人間にとって知性とか技能にすぐれていることはもちろん大事でございますが、これより重要な本質的要素は人間の特性とか道徳性であります。土木技術者として土木技術に秀でると同時に、人間としての特性を磨くことを忘れてはいけないと思います。

 こういった観点から見ますと、土木学会が平成11年度に「倫理規定」を定めたのは、時宜を得た適切な措置であり、特性を磨き、「倫理規定」を実践できる土木技術者になることを目指すことが、国民の公共事業執行に対する信頼回復につながるものと思います。

また、この信頼される土木技術者の一つの要素にもなることですが、土木事業は多くの人の力が結集されて完成するもので、特定の個人が表に出て評価されることはほとんどありません。これは上述したように、黙って仕事をするをもってよしとする土木技術者の気質によるものだったと思います。これは確かに美徳だと思いますし、私どもそうやって仕事をしてきたわけですが、逆に没個性となり、責任があいまいになるという面もあるのではないかと思います。

最近、ある現場に行きましたら、発注者の監督者も含めて、工事担当者の氏名を大きく掲示している現場を見ました。これは私は大変いいことじゃないかと思います。建築士や技師の場合と同じ程度までいかなくとも、土木技術者個人を仕事の中でもっと前面に出していった方がいいのではないかと思います。これは当然土木技術者の資格とも関連する課題になると思います。

以上の点に関して、土木学会はまず上述の社会資本整備に対する批判を払拭するための各施策が確実に具現化されるよう、学会の立場から提言を行っていくべきであります。現在、学会として取り組んでいる例を挙げさせていただきますと、例えば現行の公共工事の発注方式については、VE方式の採用など、先ほど申し上げたような改善が進められていますが、やはり決定は価格重点主義であり、それが民間の技術開発促進に対するインセンティブを阻害する一因となっております。それで学会としては、本年度、「技術開発の方向に関する検討委員会」を設置し、検討を行い、必要な制度改善案を担当部局に提言をしていきたいと考えております。

 それから、次に、土木技術者の資格認定があります。上述したように、公共工事の施行に際し、従事する土木技術者の技術的、さらに人間的資質が、発注者、受注者を問わず、今後一層問われてくることになってきます。技術使途を既に運用されている資格制度もありますが、会員の専門分野についての技術力と、人として、社会人としての良識を有することを、学会が社会に対して保障する資格認定こそ、学会の大きな役割であると思います。

 これから、「土木学会技術者資格認定評議会」、議長には岡村前土木学会会長にお願いしてありますが、ここにおいて内容が審議されていくことになります。今後この制度が確立され、適切に機能するようになれば、業務に関する技能者の能力と責任が明確化し、また職場における技術者の地位の格づけにも利用されるようになると思います。そして、ひいては、退職後もその専門的知識を活用する機会を拡大することになります。

 21世紀における社会資本整備における土木学会の役割については、「比較委員会2000年レポート」において多岐にわたる提案がなされておりますが、以上述べた点は早急な取り組みが必要な課題であると考えております。

本日は、この後、社会資本整備のあり方について、特別討論会が行われることになっており、その場で、より広い角度からの討論がなされることが期待されます。私の話がその討論に少しでもお役に立てば幸せであります。

ご静聴ありがとうございました。 (拍手)

○司会 鈴木会長、どうもありがとうございました。

特別講演 「公共」と「市民」〜「都市」について考える〜

早稲田大学教授

樋 口 陽 一

 

○司会 続きまして、「公共」と「市民」〜「都市」について考える〜と題しまして、早稲田大学教授樋口陽一先生にご講演をお願いいたします。

お手元の資料にございますように、樋口先生は、昭和32年に東北大学法学部をご卒業になり、東北大学大学院法学研究科公法学専攻博士課程を修了ののち、昭和51年に東北大学教授となられました。その後、昭和55年より東京大学教授、平成7年より上智大学教授、平成12年には現在の早稲田大学教授となられましたが、その間に、パリ第2及び第5大学客員教授として、また、日本公法学会理事長、国際憲法学会名誉会長なども務めておられます。

それでは、樋口先生、よろしくお願いいたします。 (拍手)

○樋口 私ども人文社会系の分野から申しますと、およそけた違いの大学会でございます。この土木学会の、これほど多数の方々のお集まりになる大事なお席にお招きをいただき、大変光栄に存じます。

よく、「西洋人の話はジョークで始まり、日本人の話はエクスキューズで始まる」というふうに申しますけれども、別にその言い回しを実証しようというわけではありませんが、どうしても先ほどの鈴木会長のご講演、専門家集団のリーダーとしての整然とした実証的データをお踏まえになったご講演に続いて、土木学会の会員の皆様方からすれば、私のような場違いな人間がここにあらわれて、   等のエクスキューズはどうしても申し上げる必要があろうかと思います。

私は、ここ仙台の町で生まれ、育ちました。幼稚園から大学院まで、外国留学の学歴を除いて、あらゆる学歴は、幼稚園は学歴とは申さないのかもしれませんが、仙台でございます。

そればかりではございません。私事を申し上げるようで恐縮ですが、私の父親、弟、家内、愚息の1人、これはいずれも東北大学で学び、あるいは東北大学に職を奉じております。そういうふうに言えば、一族郎党東北大学のお世話にあずかってまいりました。

それだけではなく、とりわけ、ちょうど30年ほど前の大学紛争、全国的に激発いたしました大学紛争の際に、あの大学紛争で日本の多くの大学では大学の構成員の、特に教授会構成員の間の信頼関係が失われる、非常に痛ましいことがたくさんございましたけれども、恐らく唯一に近い例外があのころの東北大学ではなかったかと思います。

私はそのころ東北大学に在職しておりました。むしろ共通の困難に対処することを通して、それまでお話をしたこともなかった、とりわけ理工系の方々と、場合によっては、その後、現在まで続くような個人的なおつき合い、友情と申し上げてもいいような間柄をつくり上げてまいりました。

そういうこともございまして、東北大学の方から「何かやれ」と言われますと、いわば条件反射的に、見境もなく、「はい」というふうに即答申し上げてしまう癖みたいなものがございまして、今回のお世話役の工学部の岸野先生からのお話を伺ったときも、余り深く考えずにお引き受けしてしまいました。

それで、その後、どういうお話を申し上げたらいいかと考えておりまして、実は、土木工学のことをシビルエンジニアリングと呼ぶということは、私、無学でお恥ずかしい話ですが、知りませんでした。岸野さんとのお話の中で初めて、なるほどそういう呼び方があるのか。そこで、私の頭の中での連想で、フランス語でジェニィミリテールという言葉を思い出しました。ジェニィというのは天才とか才能とか、もっと平たく言えば、技、技術ですね。これは昔の言葉で申しますと工兵技術です。お若い方は「工兵」といってもご存じがないでしょうけれども、この広瀬川のこの近くに第2師団の工兵隊というのがありました。私の子供のころ。要するに、橋をかけたり城塞をつくったりする軍事技術ですね。

そのジェニィミリテールという言葉を思い出しまして、それじゃあジェニィシビルという言葉がひょっとしたらあるのかなと、シビルエンジニアリングに対応するジェニィシビルという言葉があるのかなと思って、大きなフランス語の辞典を引きましたらありました。土木工学と書いてございました。要するに、軍事に対する民としてのシビル、それと同時に、私に対する公共という意味を含めたシビルということなのだなということを、私なりに知った次第であります。

そこで、きょうは、そのシビルという、いみじくもシビルエンジニアリングのシビルという言葉を、言ってみればキーワードにいたしまして、何がしかのお話を申し上げたいと考えてまいりました。

公共事業、たまたま先週、私は南フランスに所用がありまして行っておりました。今回は日程が非常に詰まっておりましたので、今回行ったわけではございませんけれども、昔見物したことのあります例のポン・デュ・ガールというローマ時代の水道ですね。橋の形をした巨大な水道、これは私は受け売りで本当かどうかわかりませんけれども、もちろん水道ですから、水を運ぶ。その水があの乾燥した南フランスの地で珍重されたのは、ローマの風習であります浴場ですね、あのカラカラの大浴場、ローマの本場にあります。浴場、要するにレジャー、今で言えば一種のレジャーの最たるものでありましょう。そういう要求が非常に強かったのだということを聞いたことがあります。軍ではなくて民であることは確かじゃないだろうかと。

それから、実はその前の週に、同じこの東北の日本海側の酒田という町に参る機会がありました。ご承知の方も多いと思いますけれども、酒田というのは、中世の日本で堺や博多ほどではありませんけれども、それに近い一種の自治都市的な実質を持った、回船問屋の36人衆という町の合議制が機能していた、日本では珍しい町ですね。その酒田でのあの日本海海岸の非常に困難に違いなかった植林、砂防植林、そしてかつての本間家が持っていた広大な農地を保障するようなそういう事業、それこそ公共事業のかつてのいったのについて、いろいろ土地の郷土史家から説明を受ける機会がありました。

 この仙台でも、土木関係の方々はよくご存じでらっしゃいます貞山堀というのがございますね。太平洋の海岸沿いに、当時としては実に見事な運河をつくった。そういう公共事業、ここには一般市民の方々もあるいはお見えになっていらっしゃるかもしれませんので、念のために、公共事業という言葉は、国の予算上の定義としては、治山治水から始まって、たしか八つだったと思いますが、八つの項目が列挙されている一連の事業です。今日ではより広く、先ほどの会長のご講演にもしばしば出てきました社会資本という言葉が、より広くここでは重要ではなかろうかと思いますが、私はそちらの方の専門では全くありませんので、素人があいまいな定義をあえていたしますが、第1次産業から第3次までのあらゆる生産活動の前提としての意味を持つパブリックな公共財、これが社会資本というわけでございましょう。

 明治の日本にとっては、そういう意味では、おそらく鉄道と教育が社会資本の最も最たるものだったろうと。それはそれぞれの専門家の並々ならぬ情熱によって支えられて、近代日本の基礎をつくったわけですけれども、同時に、より大きな枠組みとしての目標は「富国強兵」だったろうと思います。

 戦後はどうだろうかと、戦前の「富国強兵」に対応するものとしては、もちろん「経済の発展」ということでありますけれども、それと密接に結びつくのは「票」、投票です。有権者、「票の要求」ということがあったのではなかろうかと。票によって世の中が動くということは、もちろん民主政治の大原則であります。こういう原則を世の中に通用させるために、とりわけ西ヨーロッパを中心として流血の戦いがあって、票によって物事を決めるという、まあ平たく言えば民主主義が、そういう先人たちの犠牲の上に築かれてきたのですけれども、そして今日、国民主権、票による政治というのは何よりも重要な原則なのですが、何事によらず、先人たちの努力によってつくり上げられたシステム、それ自身が安定しますと、よくない面も出てくると。この票によって世の中が動くということは、本来あるべき姿であると同時に、いろいろな副作用、よくない面をもたらすということが、社会資本の充実を動かすかつての「富国強兵」に対応する「票」という問題についても、実は当てはまるのではなかろうかと。

 そういう中で、シビル、公共ということを皆さんとご一緒に少々考えてみたいということになります。

 そこで、副題に「都市」という言葉を挙げておきました。なぜ都市なのかと。田園だってもちろん重要なのですが、ここでのお話の、余りお話を広げないために、都市ということ、そういう窓口から問題をのぞいてみようというわけなのですが、ここで言う都市というのは、決してただ家屋がたくさん集まっている場所というだけではありません。歴史的に輪郭のある話でございます。さかのぼれば、ギリシャ、ローマのいわゆる都市国家にさかのぼる、都市という人間の文化の一つの場ということになります。もっともギリシャ、ローマの都市国家を単純に民主制の原点として単純に考えるわけにはまいりません。ご承知の方も多いように、ギリシャ、ローマの都市国家では、それぞれの家の長、家長たる男性だけがその都市国家の構成員と目されていました。女性それから奴隷ですね、こういうホモサピエンス、人間には間違いないのだけれども、彼らは都市の構成員とは考えられていなかった。ですから、近代民主制をさかのぼって、そう簡単にギリシャ、ローマの都市国家のいわゆる民主制というわけにはまいらないのですけれども、そういう重要な違いは別といたしまして、やはり対等な、少なくとも建前として対等な立場に立っている一つの公共社会の構成員が、合議でもって物事を決め、そこを動かしていくという原則、そういうふうに考えれば、この近代民主制は確かにギリシャ、ローマの都市国家の経験なしには成立しなかったでしょう。

 ギリシャの場合には「ポリス」というふうに申します。ポリスというのは警察という意味が後で普通の言葉として、辞書を引きますと出てきますけれども、もともとポリスというのはギリシャ語で都市国家のことです。ポリティカルとかポリテークという言葉が出てくるのはそこからですね。

 それから、ローマの場合にはラテン語で「キビタス」と申します。Civitasと書きます。キビタスです。この言葉をもとにしてシビルという言葉が出てまいりました。英語でもフランス語でも共通です。

 ですから、ポリティカルとシビルというのは、今日の用語では別のものを指すというふうに考えられることが多いのですけれども、実は両方ともその語源は同じものであって、都市国家という公共社会の運営の仕方にかかわるコンセプトだった。それが、実は近代に入ると分裂してきます。シビル、私的なシビルとパブリックなポリティックというのが分裂してくる、これは非常に面白い言葉の変遷があるのですけれども、その点は後でもう一度触れさせていただきます。

 ともあれ、こういうギリシャ、ローマの都市国家の民主主義を系譜にさかのぼった系譜にした上で、17世紀の思想家たちが社会契約論、ホブスに始まりロック、ルソーと、まあ教科書に出てまいります定番のああいう思想家たちの社会契約論が唱えられることになります。

その中で、一番はっきりと問題を提出しているのはルソーという、ジャンジャック・ルソーですね、彼の議論のキーワードとして、英語で言えばシティズンに当たる、フランス語で彼は書いておりますから、シートアイアンという言葉を一つのキーワードとして使うのですけれども、その際に、彼はわざわざ念を押して、「私がここでシートアイアン、シティズンという言葉で呼ぼうとしているのは、町に住んでいる人という意味ではない」と。まあシートアイアン、シティズンという言葉は、日本では「市民」という、これはほぼ確立した、定まった訳がありますから、私も市民という言葉を使いますが、この「市民」というと、町民や村民は入れない市民かと、「市民が大事だ」ということが言われ始めた10年ぐらい前に、東京都下のある町長さんが、「うちはそれじゃあどうしてくれるんだ」というふうに真面目におっしゃったそうですけれども、そういう意味での市民、町民、村民という区分けの市民、都会だから市民というのではないということを、実は300年前にルソーは既に念を押しております。

それでは、町に住んでいる人だから市民というのでない、ではどういう意味で自分は使うのかと、ルソーは国民主権、人民主権ですね、もちろん。その国民、人民をルソーは、英語で言えば「ピープル」という言葉、これもルソー自身はフランス語ですから「プープル」という言葉ですが、まあピーブルというふうにお考えいただけばよろしいでしょう。主権者というのは一体であって、分割することができないと。主権者、国民の意思というのは一つのものとしてまとまらなくちゃいけないと、だからピーブル・プープルというのは分割不可能なものだと。しかし、それを構成しているのは生身の1人1人の個人であると。全体として見れば、主権者であるところのピープル・プープルをあえてその1人1人の構成員に着目して、言葉を使う場合に、自分はそれをシートアイアン、つまりシティズンと呼ぶのだと。

要するに、主権者たる個々の個人と、主権者たる国民、人民をつくり上げている1人1人の個人というのが、ルソーの言う市民、シートアイアンなのですね。 この点は何か中学の社会科の講義をお聞かせしているようで少し恐縮な感じもいたしますけれども、非常に実は重要な、今の我々の今日の社会、世の中を動かしていく場合にも重要な観点が含まれているように私は考えております。

というのは、「市民」という言葉は、しばしば今日の日本では、「政治なんかは嫌いだと。政治のことは知らない」、むしろ、大体選挙は日曜日にやりますから、夏ならば海に行く、ヨットに行くと、冬ならばスキーに行くと、あるいはゴルフに行くと。要するに、政治にかかわらない市民という語感がどうしてもつきまといます。

そうじゃなくて、ルソーがもともと言おうとしたのは、繰り返しますけれども、主権者である国民、人民をつくり上げている1人1人の構成員、これが日本語であえて訳せば市民なのだと。

どうしても言葉というのは、ルソー自身がフランス語の本の読者にそういう、わざわざ注意してくれと言わざるを得なかったぐらいですから、横文字の言葉でも単純ではないニュアンスを含んでいるのでしょうけれども、日本語の市民ということになると、ますますそうですね。

そういう意味で、明治の初めに中江兆民という人がいましたね。彼は自称、他称「東洋のルソー」と称していた人ですけれども、この人がルソーの「社会契約論」を翻訳しました。そのときに、彼の非凡なのは、いろいろなコンテクストによって同じシートアイアンという言葉を訳し分けているのですね。一つの言葉を日本語に機械的に当てはめるのではない。で、彼の非凡なのは、「国の人」、要するに国家をつくり上げている構成員という意味を当てようとした。「国の人」。それから、あるコンテクストでは「士」、侍の士という字をあえて当てているのですね。つまり天下国家のことに関心を失わないでいるような構成員、あるべき姿の、実際にはどんな社会、どんな国でもそんな立派な「士」しかいないというわけではないのですけれども、あるべき「士」とはいわんぞうというのは、まさにそういう言葉で言いあらわされるようなものではないでしょうかと。つまり、一つのパブリックな世の中、公共社会をつくり上げ、その構成員として自分でものを考え、自分たちでものを決め、その決まったことの結果の責任は自分たちが引き受けるという、こういう、繰り返して申しますけれども、そんな立派な市民や国民は決して民主主義の先進国にもそうざらにいるわけではないのですけれども、あるべき姿を示すということは、それとして非常に重要な点なのですね。

そういう文脈で、先ほど申し上げた、もともとは同じ言葉であった、古代ギリシャで言えばポリスというギリシャ語、古代ローマであればキビタスというラテン語、それぞれがポリスからポリティカル、 キビタスからシビルという。ですから、本来は同じものを指していたものが、近代社会になってきますと分かれてくる。場合によっては対象的なものになってくる。シビルというのは私事、ポリティカルというのは逆に何か少し違ったところにある政治的なものと、私から離れてしまった政治的なものというふうな言葉遣いが、西欧社会自身に一たん広がってまいります。その点で、私は、このシビルエンジニアリングという言葉を初めて、実は先ほど申しましたように、お恥ずかしながら初めて知って、非常にヒントを得たのです。

つまり、近代社会が分解させてしまっていたポリティカルとシビル、「公」と「私」の二つを統合したままの本来の意味でのシビルという言葉を、このシビルエンジニアリングという横文字の言葉は、例えば公共事業とか社会資本とか、そういう決して私的なものにとどまらないものに連なっていく意味合いを保ってきたということに、大変興味を持ちました。

そこで、その都市なのですけれども、ルソーがさっき言った、「町に住んでいる人のことを市民と言っているのではない」というあの念押しの言葉というのは、この都市という言葉を理解するときにも実は大事な意味を持っているのではなかろうかと。田舎に対する町というだけの意味ではなかったはずです。むしろそうではなくて、自然に対する、後で誤解のないように説明をいたしますけれども、人為、これが都市というコンセプトのエッセッスだったのではないだろうかと。皆さん、ヨーロッパの町を何気なく散歩されて、だれでもすぐ気がつくことは、町の中央に必ず広場があって、広場の片側にはその町の代表的な教会、少なくとも代表的な教会の一つがあって、その反対側には市役所があるという、これはもう本当に判で押したような、定番的なスタイルになっておりますね。そしてそこを中心にして、意識的に人為の所産としての人間の集落というのがつくられている。

例えば「地図」という言葉、英語で言えば「マップ」というのは、マップとそれからプランというのはどうも使い方が違うようですね。町の地図、「仙台市の地図をください」というときは、「マップくれ」というのではだめで、「仙台市のプランをくれ」と。「ロンドンのプランをくれ」と。フランス語で言えば、「パリのプラーンをくれ」と。それでフランス全体の地図、マップに当たるのだと「ギャルツ」、「ギャルツ・デ・フランスをくれ」と。ドイツ語でもそうらしいですね。町の観光案内所に行って、「この町の地図をください」というときは、「シュタットプランをくれ」と。そのもっと広いドライブ旅行などをするから、そういう地図をくれというときには、「ランツ・カルテをくれ」と。英・仏・独いずれも「プラン」という言葉が都市の地図を指すものとして使われているというのは、本当のことはわかりませんよ。私はそれを本当に調べたわけじゃありませんから、私なりの自己流の理解からいたしますと、都市というものが人為のプランに沿ってつくられた、意識的なつくられたものなのだということをどうも反映しているように思います。

まあ、考えてみれば日本だってそうですね。典型的には平城京、平安京というのは、ご承知のようにああいう碁盤の目で、意識的につくられた、だらだら、だらだらとただ必要に応じて家並みが農地をつぶして広がっていくというのではなかったはずです。城下町も多かれ少なかれそうだったでしょう。ここ仙台は、ことしですか、来年ですか、仙台開府400周年と、1600年が関が原ですから、ちょうどそのころですね。

ついでの話ですけれども、ここにありますお城、仙台城、愛称「青葉城」と呼ばれておりますけれども、私が昔、仙台の古老の郷土史家から聞いた話なのですけれども、もうその時期になりますと、かつての戦国大名とは違って、徳川家の権威がもう全国的に確立した、もう関が原ですから。お城を築くには徳川の許可が必要だと。順位をつけて第1順位、第2順位、第3順位、希望を出して許しを得なければいけない。ところが第1順位にはなかなか許しを与えないと。それはそうですね。やっと自分の覇権を確保したばかりの中央政権徳川にとって、とりわけ奥州を治める、とにかく奥州王という名前でバチカンに日本初めての大使をいわば派遣した力を持っているのがこの仙台藩でしたから、当然警戒の対象です。

それで、私はこれは本当に歴史家が調べればどうなるかわかりません。その郷土史家の古老から聞いた話の受け売りなのですけれども、それで伊達家としては一計を案じて、一番つくりたかった候補地を第3位にし、そして第2位、そして第1位はいわば、要するにどうせだめになってもいいというので、順位表をつくったのだそうです。それで、本来の一番の候補地、つまり第3位は、ここから行きますと石巻という港町があります。あの北上川という大きな川の河口ですね。大崎平野の広大な農地と、要するに伊達家の、仙台藩の財産ですから、お米というのは。それをヒンターランドにした考案、そこにある日和山という小高い丘があります。それを、本当はそこにしたかったのだそうですが、それを第3順位にしたと。第2順位は仙台駅のちょっと向こう側にありますつつじが丘という丘です。現在はもう住宅地、もちろん住宅地がむしろ中心になってしまっていますから、丘であることが余りよく意識されないほどですけれども、私が子供のころは明らかに丘であることがわかるような丘でした。そして、第1順位にこのモガサキというのですか、当時の言葉でいいますと、この今の城跡があるところです。

それに対して、家康の方はもちろん密偵、隠密を放って、状況は全部掌握しているわけでありますから、裏をかいて、「いや、仙台家、伊達家は特別の間柄だから、ご希望どおり第1で結構だ」と言って、裏の裏をかかれてしまったというのが、結局、政宗はここにはやぐらはつくらなかった、やぐらといいますか天守閣はつくらなかったのです。あそこにあります隅やぐらという、そして隅やぐらの道路をまたいで、立派な大手門がありました。戦災で見事にねらい打ちされて、そこは焼けました。それが今の青葉城ということになります。

ちょっと余談が長くなりましたけれども、城下町というのはまさにプランだったはずです。それが日本の場合には、西洋の場合にはそういうプランに基づいてつくられた中世以来の都市が、基本的にそのまま今日まで維持されてきている。その周辺にウルトラモダンな新しい建物をつくったりはしますけれども、中そのものは変わらない。

日本の場合には、ご承知のように、そうはいかなくて、そうでなくともしばしば火災というものに見舞われてまいりましたし、なかんずく、第二次世界大戦の空襲で日本の地方都市も含めて、仙台も含めましてほとんど焼かれました。それ以後はプランに沿った都市というものは、昔であれば、城下町であれば城主、一方的に命令する人がいた。戦後、国民主権の世の中になって、もちろん一方的に命令する人があってはならないと。いないと。そうかといって、これから申し上げるような、またルソーがこだわって、何度も説明したような「市民」というものも、現在我々だ手探りでようやくつくり始めている。そういう中で、この都市のあり方というものが、皆さん、現在、日本の多くの都市で見られるような雑駁な形のものになってしまったと。

しかし、都市という場合の原点は、やはり自然じゃなくて人為であり、日本の場合には城主の命令でつくられる城下町が主たるパターンですけれども、先ほど申し上げたような堺とか博多とか、それからレベルは大分違いますけれども、さっき言った酒田とか、あそこではいわば一つの市民の原型があったと思うのです。そのさらに原型は中世ヨーロッパの都市であります。だからこそ法制史、法律の歴史の講義ではよく習う言葉で、「都市の空気は自由にする」と、直訳するとそういう言葉があるのです。「シュタットルフツ・マート・フライズ」、ドイツ語で言いますと。これは講義に必ず出てくる言葉ですけれども、「都市の空気は自由にする」と、それは農村では封建時代に農奴身分でこき使われていたのに対して、ヨーロッパ中世の場合には、多かれ少なかれ実質的な権能を持ち、しかも多くの場合、典型的には国王からの特許状を得て、自治権に法的な裏打ちを与えられた一つの公共社会が都市でしたから、そういう意味で「都市の空気は自由にする」と。決して田舎にいると隣近所のおじいさんやおばあさんの目がうるさくて、遊びも満足にできない、若い者は遊びもできない、町に行けば手足を伸ばして遊べるというだけのことではなかった。

 そういう意味での、都市につきものの享楽的な要素、遊べる要素というふうなものに関する限りでは、日本だって決してなかったわけじゃない。江戸時代のまさに江戸での歌舞伎とか、吉原ですね、ああいうところの繁栄というのは、確かに都市だからこそです。しかし、「都市の空気は自由にする」という意味でのその自由、自治の話とは違っていた。

 この点で、丸山真男先生という私どもの先生世代です。もう歴史的な人物ですから、丸山真男というふうに私はここで言っておきますけれども、戦後間もない時期に、「日本における自由意識の特質」という、短いですけれども、これは本当にすぐれた論文を書いております。

 この中で、自由というのは、非常に多義的な言葉である。人によっていろいろなことを指す、そして人によって「はやりたいことをやる」と、これを自由という言葉でもう決めてかかっている人たちがいると。これは間違いないですね。そういう自由の使い方があります。やりたいことをやらせてくれと。これを丸山真男は「人欲の開放としての自由」というふうに呼びます。やりたいことをやらせてくれと。

 しかし、近代ヨーロッパが苦心惨たんして、場合によっては革命の流血までして手に入れようとした自由はそういうものじゃなかったと。それはルールをみずからつくり出す、彼は「規範創造的自由」というふうに呼びます。呼び名はどうであれ、みずからの公共社会を自分たち自身がつくり出す自由と。

 この二つの分け方によりますと、人欲の開放としての自由というのは、丸山真男に言わせますと、封建時代の日本にだってあったのだというので、まさに私が今申しました江戸の吉原とか京都の島原とか、それからいろいろな歌舞伎芝居見物の世界とか、そうして、大店の若だんなが身上をつぶしてしまうような自由ですね。それは江戸時代にだって部分的にあったのです。

 明治はさらにそういう意味での自由を広げた。確かにそうですね。私たちが子供のころ、この日本全土が戦時色一色になる直前までは、例えば東京の銀座にはエログロナンセンスの自由というのがあった、銀座や浅草にはあったわけですね。現在六本木のあたりで若い人たちがいろいろな、今、エログロナンセンスという言葉は使いませんが、今どういう言葉があるのでしょうか、ああいうやりたいことを人前でやってみせる自由というのは、国民主権、基本的人権をようやく掲げることになった戦後を待つまでもなくあったと。しかし、そうでない、ルールをみずからつくり上げて、公共社会を維持していくという自由というのは、まさにプランに基づいて世の中を、しかも自分たちの意思に基づいてそうする自由というのは、これからなんだと。これは決して易しいことじゃないということを、1947年の丸山真男の論文は既に見通しています。戦後、民主主義だと。もう何をやってもいいのだという雰囲気が広がっていたその時期に、既に、それは考え違いしてはいけないということを指摘していた。その課題は50年たった現在なお、私たちの前に置かれ続けているのではないでしょうか。

そういう中で、最後に、私は、きょうは土木学会という土木工学の専門家の方々のお集まりです。専門家の責任とそれから市民の責任の間のあるべき関係というものを考えてみることによって、お話を閉じさせていただきたいと思います。

ですから、ここで私が市民というのは、ある人々は国民という言葉で言おうとしていることと、そんなに違うことではないのです。ただ、主権者としての全体としての国民というと、全体だから、国民全体なんだから、例えば、おれ一人が、私一人が投票に行かなくたって、国民主権には変わりないだろうというふうなことになっていきがちなのですが、それをルソー流な意味での市民という言葉に置きかえてとらえたときには、自分一人が、自分一人の行為というのが、全体としてのピープル、国民主権、国民の意思によって世の中を動かしていくということにとって不可欠なのだということを、少しでも、より近く感じさせるのではないでしょうか。

国民というあいまいな言葉については、先年亡くなられた司馬遼太郎さんが、私は大変親しくさせていただいておりまして、仙台の私の自宅にも2度ほどおいでくだすったことがございます。ある雑誌の公の対談で、司馬さんは、「国民という言葉はあいまいで、したがってネーションという言葉もあいまいだ」。ネーションというのはナチュラルな、あるいはネイティブな、要するに生まれとか血のつながりというものを連想する。それを引きずってきているエスニックな観念にどうも引きずられやすい。そうじゃなくて、それは社会科学の専門の方である丸山真男流に言えば、規範創造的な自由の担い手としての国民・市民ということになるのでしょうけれども、司馬さんはもっと感覚的な言葉でそうおっしゃる。

司馬さんのことを国民作家、あるいは国民的作家というふうに呼ぶジャーナリズムの世界で広くありますね。私は、むしろ司馬さんは、あるべき国民をつくり上げることに挫折してきた日本というのを、厳しく問い直してきたのではなかろうかと。司馬さんは幕末から日露戦争までの日本が好きなのですね。ですから、彼のメインの作品はあそこに集中しております。というのは、230年も鎖国のもとにありながら、目隠しを外されたときに、今私たちが考えれば、驚くほど的確に対応できた、もちろんいろいろな間違いもありましたけれども、驚くほど的確に対応できた私たちの先輩の人たち。その持っていた可能性、司馬さんは、単純に言うと、日露戦争で勝ってしまったものだから、それから日本はおかしくなったということを繰り返し、作品の中でも、それからエッセイとか座談の中でもおっしゃっていますね。

考えてみれば、日露戦争というのは、イギリスに頼んでつくったもらった軍艦で、アメリカから借りたお金で戦ったわけでしょう。そうして、到底勝ち戦でロシアを完膚なきまでにやつけることができない戦争の流れの中で、アメリカの大統領の仲介によって戦勝国になり得たという、ありのままの姿を忘れてしまった。

それ以後の日本は、司馬さん流に言う、本当の意味での「国民」、ルソーの言う「市民」、その原型はギリシャ、ローマの都市国家、そして中世ヨーロッパの自治都市なのでしょうけれども、それを広げた意味での国民というものを、どうしてつくるのに失敗してきたのだろうかということを問い直し続けたのが、司馬さんご自身のご年齢で、最後の何年間か、ご自身がもう小説を書くよりもエッセイ、かの「この国のかたち」という形でまとめられたあのエッセイを通して、晩年には訴えかけられたことだったと思うのです。

さて、そういう形成途上にある市民・国民、国民主権というのは恐ろしい原則ですから、最後に国民が望めば、国民は自己破滅することもできるという、これが国民主権ですね。この恐ろしさを日本は、ドイツのような形ではまだ経験していない。ドイツは、ご承知のように、初めて国民主権の憲法を持った、第一次大戦、第二次大戦の戦間期にヒトラーという人間に投票でもって自分たちの運命をゆだねてしまった。国民主権というのはそういう怖いものです。

そういう中で、形成途上にある我々自身が市民・国民と。それに対する専門家としての倫理。専門家の倫理というのは、専門家としての、言ってみれば、特に世の中にかかわる専門、皆さんは土木工学であり、あるいは法律学というのは典型的にそうです。人文社会科学について言えば。あるいは医学もそうでしょう。こういう事柄にかかわる専門家集団のそれぞれの1員が、傲慢でもなく無責任でもなく、専門家としての妥協しない、しかし、先ほど会長のご講演にもありましたような、専門家への信頼関係をつくり上げていくという、努力と表裏一体になった専門家としての自負というものは、一方ではどうしても必要だろうと。

例えば、私ども法律で申しますと、例えば、今、少年法をどうしたらいいのかと。これはそう簡単でない、悪いことをする少年がふえてきたようだから、厳罰に処すればいいという議論が一方であります。しかし、他方では、戦後だけでも50年の間、いろいろな専門家たち、少年法、少年裁判の専門家たちが心血を注いでつくり上げてきた一つの大きな歴史があるのですね。それにはプラスとマイナスが当然あります。しかし、あたかも普通の、素朴な、という言葉をあえて使いますが、国民感情からすれば、悪いことをするのを子供だからといって甘やかしてはいけないというのが、一つは素朴に出てくる感情でしょう。最後に決めるのは、投票でもって行動する国民なのですけれども、それに対して、そう簡単なことではないよと、こういうこともあるし、こういうこともあるし、しかし、ここも考えなければいけないよということを述べるのが、専門家としての少年法あるいは少年裁判のエキスパートたちの恐らく倫理でしょう。

もっと大きく言えば、きょう私の専門にはあえて一切立ち入りませんでしたけれども、憲法改正という問題についてもそうですね。いろいろな入り組んだ、いろいろな情報を提供する。その際に、場合によってはゆえない反発を受けることもあるでしょうけれども、それを回避してはならないというのが専門家の倫理である。それと、最後には自分で、あえて申しますけれども、自己破滅する可能性をも含めて、決定する力を持っているのは国民・市民であります。この両者の間の移動枠の緊張に耐えるということが私たちに課せられている厳しい任務ではないでしょうか。

それを、ほかならぬ土木工学という場面でどういうふうに皆さんがお考えになり、どういう議論の蓄積があるのかということを、恐らくそれはこの後のパネルディスカッションで展開される事柄だろうと思います。私も法律学という自分の立場に引きつけながら、フロアでお話を聞かせていただこうと存じております。

与えられた時間がちょうどそのようになりましたようですので、どうもご静聴を感謝申し上げます。ありがとうございました。 (拍手)

○司会 樋口先生、どうもありがとうございました。

閉会挨拶  

全国大会実行委員会講演部会長  岸 野 佑 次

○司会 これで特別講演は終了となりますが、ここで平成12年度土木学会全国大会実行委員会講演部会長岸野より、閉会のごあいさつを申し上げます。 (拍手)

○岸野 今世紀最後の全国大会も2日目となりました。学術講演会並びに研究討論会では、大変熱心なご発表、ご討議が続けられております。会場によりましては、席に座れないとか、あるいは会場に入れないといったようなご迷惑もおかけしておりますけれども、まずはこのことをおわび申し上げます。

また、この仙台大会より、講演概要集のCD−ROM化、さらには参加登録の電子化というものが、大きな混乱もなく、というふうに私ども願っておりますけれども、実行に移されました。本部全国大会委員会の下記、あるいは事務局の各位のご努力、さらには参加会員の皆様方のご協力に感謝申し上げる次第でございます。

 さて、ただいまは鈴木道雄会長並びに樋口陽一先生より、大変示唆に富むご講演を賜りました。お二人のご好意に対しまして心より感謝申し上げます。

 鈴木会長からは、我が国における公共事業の現状の評価と、それから土木技術者に要求される発想の転換といいますか、というようなことなどにつきましていろいろお話を伺いました。

 また、樋口先生からは、真の「公共」が成立するためには、「市民」、シュトワイヤンでしょうか、の確固とした確立が必要であると。前提であると、そういうようなことをお伺いいたしました。

 お二人のご講演を通しまして、技術者は技術者としての確固とした「個」を確立し、この公共の場におきまして、一層の責任ある行動が必要であるというようなことを学ばさせていただきました。大変ありがとうございました。

 なお、土木工学に携わる者に期待されます理想的な「個」とは何かといいますのは、これから行われます特別討論会のテーマでもございます。会場の皆様におかれましては、ぜひこの特別討論会にもご参会くださいますようご案内申し上げます。

 それでは、以上をもちまして、ひとまずこの特別講演会を閉会とさせていただきます。

  どうもありがとうございました。(拍手)

○司会 これをもちまして特別講演会を終了させていただきます。

 なお、この後、16時40分より特別討論会を行いますが、ステージの準備が整いますまでの間、休憩とさせていただきます。

引き続きご参加くださいますようお願いいたします。

お配りした資料の中にアンケート用紙が入っておりますので、ご記入をお願いいたします。特別討論会終了後、出口のところに準備してあります箱にお入れください。

また、特別討論会終了後、18時45分より、2階さくらにおきまして交流会を予定いたしております。

────── 休 憩──────


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